失われた時を求めて





 散々押し込んできた欲望が弾けたのは、生まれてこのかた初めてのことだった。特に明確なきっかけもなく、それはふつふつとお湯が煮えたぎるように、遊作の腹の底から溢れ出した。強いて言うなれば、電脳ウィルスに侵されたが、精密検査と事後経過観察を終えて一週間ぶりに学校に顔を出したから、だろうか。実際のところなぜこんなにも今になって彼女を体が求めているのか、遊作自身にも分からない。思考回路を置き去りにした欲求が、脳髄に訴えかけてくる。今すぐ彼女を抱くのだ、と。



 誰もいない教室に彼女を連れ去って、鍵を掛けると、は戸惑いの色を浮かべた。


「藤木くん…?」


 切なげな吐息交じりの声音がより一層欲情を掻き立てていることに、は気付かない。沸き立つ欲望もひたすら上へ上へと高まるばかりで、止まることを知らない。彼女の、ほんの少し怯えた様子の瞳が、余計に遊作の身体の奥底を刺激した。僅かな吐息でさえ、この空間では嫌という程反響し、聴覚を侵食する。全身から身体を押しつぶされそうなほどの欲望が吹き出してしまいそうだった。

 の身体を壁に縫い付けて、遊作は強引に思いのまま唇を重ねた。普段のクールな彼の片鱗を微塵も感じさせないほど荒々しく、猛々しい口付けだった。噛み付いて、吸って、侵食して、貪って、唾液が垂れても構やしない。お互いのピントがぼやける至近距離の中で、息継ぎの合間も与えない激しいキスだけがやけに鮮明だった。


「っふ、んあ、ふ、藤木く、んっ」


 食らいついた唇の合間を縫って漏らされた吐息交じりの声は苦しげだった。はささやかな抵抗を試みようと遊作の胸板に手を添えるも、その手は攫われ、教室の壁に押し付けられてしまう。逞しい肢体は彼女の自由を奪い、二人の体躯はより一層密着し、爬虫類を思わせる遊作の舌先の動きが彼女の口腔を隅々まで弄んでいく。味わうように舌中をなぞり、吸い上げれば、何も考えられなくなる。思わず理性の糸を手放してしまいそうになるほど、陶酔な雰囲気に身を委ねかけていた。


「ねえ、待って、ここ学校…、っ」

「嫌だ。放課後まで待てない」


 の制止をぴしゃりと一蹴するその眼差しは真剣そのものだった。これは冗談でも暇つぶしでもない。遊作にとって、本気中の本気なのだ。彼はしなやかな指先を彼女の手首から離し、首元のネクタイを緩め始める。滑らかで官能的な動作に思わず視線が奪われる。


「今すぐお前が欲しい。そう思ってるのは、俺だけか?」


 耳朶に歯を立てながら、遊作は囁いた。熱を纏った吐息がの鼓膜を熱く濡らす。耳の穴に差し込まれた舌先が淫らな水音を立てて、理性を捨てろと訴えかけてくる。余裕のない呼吸音がダイレクトに響き、陥落を促してくる。駄目なんだ。もう我慢できない。だから、一緒に堕ちてくれないか。

 なんとか手繰り寄せていた理性の糸が、ぷつんと音を立てて弾けた。はもう、胸元に這いよる遊作の手を振り払うことなど、到底出来やしない。



 衝動のあるところに自我をあらしめよ、と、かの偉人は格言を残した。事件の真相を追い求める遊作は復讐という呪いを受け、明くる日も明くる日も、悪夢にうなされながら失われた過去と未来を求めた。

 ハノイの騎士との戦いを終え、失われた過去の一部を手に入れ、事件の真相を得た今、遊作は未来を取り戻そうとしている。彼が受けた呪いの十年はあっという間のようで、長きにわたり彼を苦痛に至らしめた代物なのだが、その呪縛が解かれ、求めた未来への道筋がいざ明確なものとなってくると、じゃあこれまでどうやって自我を保ってきたのか分からなくなる。彼にとっては、復讐心だけが生きる原動力だったのだ。それを失った今、彼のアイデンティティは、何だ?

 遊作が考えるよりも先に働いたのは、男としての欲求だった。求めた記憶のパズルのピースが一つ埋まると同時に、心のピースが一つ欠けてしまった。その欠けたピースを埋めるように、心のバランスが崩れてしまう前に、遊作の本能が働いたのだ。復讐に覆い隠され、ひた隠しにされていたもの、それは並々ならぬ色欲。根強い復讐心が消え去った今、彼を支えるのは奥底に秘められていた性。剥き出しになった欲は、鋭利な牙を曝け出し、へと襲いかかる。


「藤木くん、どうして」


 声にならない色めかしい声を上げ続けるの膣壁を堪能し、何度も何度も欲望を吐き出し続けた。もうどちらのものか分からない体液が穴から溢れ、混じり合っていた。蕩けるような色香が確かに存在している。本能が赴くままに、彼は腰を打ち付け続ける。


、足りない。まだ足りないんだ」


 それが何か、遊作は明言しなかった。出来なかったのだ。そして熱に浮かされたように、繰り返す。足りない、まだ足りない、欲しい、もっと欲しい、と。失われた時を求めて、未だ薄暗い旅路を彷徨っている。復讐を欲望に置き換えて、己に降りかかる異変に気づかぬまま、彼は生きて行く。