Just call my name





、話がある」

 それは昼下がりの午後の出来事だった。は遊作の座るテーブルに、コーヒーとホットドックを置き去りにして、そのままそそくさと立ち去ろうとしていたところだった。スターダストロードの壮大な景色には目もくれず、いつにも増して真剣な面持ちでノートパソコンを睨む彼の邪魔だけははせまいと、気配を消してそっと近づいたのだが、自身の存在に気付かれ、挙句には手首を掴まれ行動を阻まれ唐突な接触をされては、流石にもたじろがずにはいられなかった。

「は、はなし?」

「とりあえずそこに座ってくれ」

 そう言って遊作は向かい側の空いた椅子を指差す。いつもの、表情を崩さないクールな顔つきとはうって変わって、真剣な眼差しで、眉間にはほんの僅かに皺が寄っていた。ハノイの騎士と戦うときだって、滅多にこんな表立って表情を見せることはないというのに。何とも表現しがたい胸騒ぎがした。は生唾をごくりと飲み込んで、言われるがまま、椅子に腰をかける。

「なあ、もうそろそろやめないか」

 遊作は静かに口を開いた。やめる?一体何の話をしているのだろうか。は目を見開いて、ぱちぱちと何度も細かく瞬きを繰り返した。彼の発言の意図を探るべく、意識を思考の海へと潜らせる。一体なにをやめようと訴えているのだろう。
 やめると言うのは、終わりにするということ。恐らく、何かを終らせたいのだろう…まさか、二人の関係に終止符を打とうと言っているのだろうか。関係を終わらせるということは、つまり別れるということでもある。しかし、こんな白昼堂々、しかも後ろのキッチンカーでは、草薙がホットドックに挟むウインナーを焼いていて、その様子をカウンターに置かれたディスクに潜むAiが物珍しそうに見ている。そんな最中に、痴情の縺れ話だと…?遊作が放ったのはたった一言ではあったものの、深読みのしすぎではどんどんマイナスな思考に陥っていった。他に好きな人でもできたのだろうか。いやいや。まさか、まさか。遊作に限って、そんなことがあるはず…。疑念は連想ゲームのように次々と浮かび上がってくる。

「もしかして……財前さん?」

「は?」

 顔を青ざめさせ、瞳を涙で潤ませながら零れた、突拍子もない言葉に、遊作は思わずの手首を掴んでいた力を緩めた。なんのことだと言いたげに、眉を顰める。

「それともゆまちゃん…? いや、まさかの委員長?!」

「ちょっと待て。一体何の話をしてるんだ」

「別れようとか、他に好きな人ができたとか、そういう事じゃ、ないの?」

「誰もそんなことは言ってない」

 遊作は呆れ顔で頬杖をつくと、もう片方の手でコーヒーの入ったカップのフタを器用に開けた。ふぅふぅと息を吐いて表面を冷ましてから、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。は口をぽかんと開けたまま、彼の流れるような一連の動作を見つめていた。

「え、でも、藤木くん、話があるって…」

「それだよ、それ」

「それ?」

「俺が言いたいのは、そろそろその呼び方をやめないかってことだ」

 淹れたてのコーヒーはすんなり飲めるほど冷めていなかったのだろう。ほんの数口、ちびちびと味わってから、遊作はカップをテーブルに置いた。次にホットドックに手を伸ばして、頬張る。

「呼び方?」

「苗字呼び。それと、くん付け」
 遊作は間髪入れずに答えた。「”藤木くん”って言うの」

 からしてみれば、突拍子もない提案だった。出会ってから恋人になって今に至るまでずっと「藤木くん」と呼んで来たし、特に変える必要性を感じたことはなかった。むしろ、なぜ今更?という話である。困ってしまって、小首を傾げた。

「藤木くんって呼ぶのに、問題があるってこと?」

 遊作はホットドックを咀嚼しながら大きく頷いた。コーヒーでホットドックを流し込むと、人差し指をに向けて立てる。

「理由は三つある。まず一つ、他人行儀じゃないか。草薙さんやAiでさえ俺のことは下の名前で呼んでいるのに、あんたはずっと”藤木くん”のままだなんて」

「言われてみれば、確かに……」

「二つ、俺はあんたのこと、名前で呼んでるし呼び捨てだ」

「むむむ」

「そして三つ。仲睦まじい男女は、お互いを親しげに呼びあうべきだとここに書いてある」

 そう言うと遊作は手元のパソコンの画面をの方へ向けた。反射的には上体を屈めて、どれどれと画面に顔を近づける。表示されていたのはカップル向けのキュレーションサイトだった。太字で強調された文字がでかでかと画面を占領している。なになに、《名前を呼び合わないカップルの破局率は86%!?恋人と長続きするコツは「名前の呼び方」にある!》……。

 ……なんだこれは。というか、真剣にパソコンを睨んでいた理由がこれかよ。あのクールで聡明な藤木遊作が、恋愛系キュレーションサイトを読んでいたなんて、意外性ありすぎだろう…。衝撃の事実にはしばし絶句せざるを得なかった。

「えーと、つまり藤木くんは、”藤木くん”じゃなくて、もっと親しげな別の呼び方をされたいってこと?」

「ああ、そうだ」

「なんて呼んで欲しいの?」

「遊作。呼び捨てでいい」

「わ、わかった」

 とは言え、今までとは違う呼び方をするのも、突然名前を呼び捨てするのも、実際の所ハードルは高い。自然の成り行きで呼ぶことになったのならともかく、本人の意向で矯正されているのだ。しかし、遊作がそれを望むと言うのであれば、は従わないわけにもいかなかった。

「ゆ、ゆ、遊作…………、くん………」

「だから、君付けは必要ないって」

 ぴくりと遊作が片方の眉を吊り上げる。こころなしか、少し不機嫌そうな装いだ。

「でも、ずっと”藤木くん”って呼んできたから、いきなり呼び捨てするなんて…なんか照れるし恥ずかしいし、違和感ありまくりで」
 はテーブルに手をついて、軽く腰を浮かせる。「ねえ、今すぐじゃなくて、徐々にじゃダメ?」

「待ってたら呼び捨てになるのか?」

「う、それは神のみぞ知るというか、善処しますというか…」

「はぁ……わかった」
 ノートパソコンを閉じ、瞼を伏せて、わざとらしく遊作はため息をついた。「あんたがその気なら、こっちにも考えがある」

「考え?」

が俺のことを”遊作”って呼ばない限り、あんたのこと、俗っぽい呼び方で呼ぶから」

「俗っぽい呼び方?」

 ナンノコッチャと言いたげに、は小首を傾げた。頭上にはたくさんのクエスチョンマークが浮かんでいる。そんな彼女の姿を遊作は薄目で見遣ると、口許をほんの僅かに歪めた。

「それはそうと、今日はいい天気だな、”たん”」

「たん?!」

「ああ、そうだ。そろそろコーヒーのおかわりが欲しいな。”たん”、注いできてくれないか」

「ちょっと待って、藤木くん、キャラが壊れてるよ?!」

「”たそ〜”」

「いやーーー! 藤木くんはそんなこと言わない!!」

 耳を塞いで、大絶叫。の中で作られた藤木遊作像が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

「やめてえええええええ」


***




「べっつに呼び方なんて好きにしたらいいのに、人間ってのは変なところにこだわるんだな」

 二人のやりとりに耳を傾けていたAiが、憐れむような口調で草薙に語りかける。当の草薙はというと、二人のやりとりを温かい眼差しで見守っていた。Aiの見下すような心境とはうって変わって、草薙にとっては二人のかけあいは心底微笑ましいようだった。

「相手にとって特別だって思われたいんだよ。好きな相手になら尚更。そういうもんさ」

「理解不能ー」

 Aiはやれやれと言いたげな表情で肩を竦めた。電撃を浴びせられたようなショックに打ちひしがれるを、羞恥をものともしない遊作はしばらくの間からかい続けた。