Bitter & Sweet




「明日のデートさ、外で待ち合わせしてから行くってのはどう?」

 帰宅するなり早々、が目を輝かせながら提案してきた内容に、了見は舌をまく思いだった。

 と生活を共にするようになって既に三年の歳月が経とうとしていた。一緒に暮らしているとはいえ、共働きということもあってか、顔を会わせられるのは朝と夜のみ、それに加えてお互い仕事に追われる忙しい身。オフの日も一ヶ月に一度合えばラッキーと言えるほどで、最近は二人で休日を過ごすとなると、部屋にこもって映画を見たり、夕飯を近所の洒落たレストランで済ませるといった具合で、マンネリ化が進行していたのだ。

 だからこそ了見は「なるほどな」と思った。脱マンネリ。お互いが自由である今だからこそ出来る、セッティングとシチュエーションである。

 彼が二つ返事で彼女の意見を飲めば「おっけー、じゃあ私、今日は響子さんのとこに泊めさせてもらうから!」などと言って、早々に荷物を纏めて家を出て行ってしまった。それから訪れたのは、張り詰めるほどの静寂。

 の居ない夜などあまりにも久しぶりで、かつ、ある意味新鮮だった。

 それと同時に、寂寥感。いつも感じていた傍の温もりがないだけで、こんなに虚しくなるものなのか。

 明くる日も夜が訪れるたびに鎌首をもたげる生理的な欲求に突き動かされて、彼女を抱いていたが、今日はそうもいかない。ベッドに染み込んだの匂いが、欲情を誘う。まるでお預けをくらった犬のように、耳を垂らして、ここに存在していない温もりに思いを馳せて自身を慰めるなど、一体何時ぶりだろうか。



***




 仄かに灯った間接照明のランプは、水の底から見上げた太陽のようだ。

 デートの休憩がてらに立ち寄ったホテルのバーラウンジで向かい合いながら、夕食どころについてどうするか意見を出し合った後のことだった。ソファに浅く腰掛けた了見が突然、前触れもなく、静かに昨夜の事のあらましを語ったのだ。絶句。それは告げられた側に相応しい言葉であると言えよう。は手中のスプーンを思わず落としそうになってしまうほど、驚きを隠せなかった。

「……それってつまり、自慰の話?」

「そうだ」

 いくら店内に二人だけとはいえ、白昼堂々なんちゅーことを平然と告白するのだこの男は。白目を剥いてみせるも、驚嘆のかんばせを浮かべるとは打って変わって、告白の当の主は澄ました顔でグラスの中のウイスキーをちびちびと煽っていた。何か違和感でも?とでも言いたげなほど堂々たる振る舞いに、は感嘆の意さえ表したい気持ちになる。

 彼が空けたグラスは三杯。もしかして。

「了見、酔ってる?」

「まさか。これしきの酒で酔うわけがないだろう」

 その言葉通り、彼はそのような様子も見せず、瞳もうつろう事なく、ただ一点、のみを捉えてた。そして、わざとらしく一気にグラスの中身を飲み干し、こちらの様子を伺っていたバーテンダーに「同じものを」と頼む始末である。ハイペースではあるものの、酒の力で絆された上での言葉でない事は明白だった。

「君のいない夜の寂しさを埋めようと思ったんだ…それはそうと、」

 ほっそりとした体躯の茶髪のバーテンダーが新しいグラスをトレイに乗せてこちらにやってきた所で、彼は言葉を区切った。流石に他人に聞かれていい話ではないと頭で理解しているのだろう。正常な思考が働いている証拠だ。

 バーテンダーが二人の雰囲気を壊さぬよう静かに立ち去った所で、彼は再度口を開く。

はどうだったんだ、昨夜は」

「昨日?そりゃあ響子さんとガールズトークしてたけど…」

「私が側にいなくて寂しくなかったのか?」

「うーん、そう言われると寂しかったような…?でも響子さんと居たからなぁ…」

 なんとも煮え切らない返答である。やれやれ、と了見は肩をすくめてみせた。彼女も自分と同じ心境であったはずだ、間違いない、そう踏んでいたのに。恥を忍んで告げた昨夜の虚しさや寂寥感など露知らず、といったの様子に、えらい肩透かしを食らった気分だった。

「だったらなぜそんなものを頼んだ」

「そんなもの?」

 了見が視線を移した先は、先ほどが注文した甘味の乗った皿。エスプレッソの苦味とマスカルポーネチーズのまろやかさが複雑なハーモニーを醸し出す、数多の人々の舌を魅了したデザート。

「ティラミスがどうかしたの?」

 頭上に疑問符を浮かべながら、は問う。自慰の話とも、彼が昨夜抱いたという寂寥感とも、関連性が見出せなかった。一口貰えるか、と言われたので、はまだ半分以上残ったティラミスの手をつけていない部分をスプーンで掬い、それを彼の前に差し出す。了見は身を乗り出し、それを口に含むと、数回咀嚼して飲み込んだ。甘いものがあまり得意でないはずの彼らしからぬ要望に、はさらに頭上の疑問符を増加させる他ない。

「君は、ティラミスの単語の意味を知らないのか?」

「意味?」

 は首を傾げる。

「イタリア語だっけ?意味まではちょっと…」

 そもそも何かしらの意が孕んでいるということこそ予想外と言わんばかりの面持ちに、思った通りだ、と了見は笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。間接キスにも動じることなく、次々とティラミスを口に運ぶの姿は微笑ましくもあるが、どうにかしかつめらしい顔を維持して、腕を束ねた。

「tiraが引っ張って、miが私を、suが上に。直訳すると、”私を上に引っ張って”、といったところか」

「うえ?それって上下のこと?」

 は怪訝な表情で顎をそらし《上》を見る。

「上ってなんだろ……、天国とか?」

「天国か…当たらずとも雖も遠からず、だな」

「じゃあ正確にはどこなのよ、その、上ってのは」

 ごく当然の流れでそう尋ねてきたに、了見はにやりと口元を歪めた。耳を近づけさせるよう手招きをすれば、彼女は興味津々といった様子で身を乗り出してくる。小振りでなめらかな曲線を描く耳元に向かって、了見は濃艶な吐息交じりに、そっと囁いた。

「絶頂を指しているんだ。つまり、ティラミスの意味は、”私をイかせて”」

 からん、との手からスプーンが落下した。横顔からでも分かるほど見る見るうちに顔が赤面していく様に、了見はさらに口元を歪める。口をぱくぱくとさせながら正面に向き直った彼女は、瞬く間に全ての会話の流れの意味を察したようであった。

「誘っているのだろう?」

「ち、ちが」

 否定の意を込めてかぶりを振るも、了見は挑戦的な様相を崩さない。ソファに深く座りなおして、肘掛を使って頬杖をつき、彼女の狼狽える様子を堪能した。予想以上の反応が、いつになく面白かったのだ。

「そんな、意味なんて…知らなかったから…!」

「本当に?」

「ほ、ほんとだってば!」

 ふと視線を感じた。送られる視線の先を横目で見遣ると、先ほどのバーテンダーが、なんだどうしたのだと言わんばかりにこちらの様子を注視していた。スプーンの落下音が思ったよりも響いたせいだろう。

「残り、食べないのか?」

 皿の上に残ったティラミスを示して尋ねると、は表情を強張らせて首を横に振った。

「だったら私が貰おう」

 それに、休憩ももういいだろう。了見はの落としたスプーンを拾い上げ、ティラミスを大して咀嚼もせずに口に運んだ。先ほど味わった時と同じ味がふわりと口内に満ちていく。ほろ苦いような、それでいて甘いような、慣れない風味が今では不思議と心地よく感じる。ただ、先ほどに食べさせてもらった一口のほうが、一番美味しかったかもしれない。

 淡々とティラミスを口に運んでいると、眉間に縦皺を刻んだが、じっとこちらを静観していることに気づいた。

 その表情に潜むところに思い当たり、了見は皮肉たっぷりに口元を吊り上げる。

「私は、意味を理解した上で食べているんだが?」

「っ!」

 これ以上ないくらいに、の顔が真っ赤に染まった。

「了見は、私にどうして欲しいの」

「そんなもの、言わなくても判るだろう」

 ティラミスを全て平らげ、バーテンダーを呼び会計を済ませる。グラスの中身はまるまる残ったままだが、渦巻く欲望はそれを欲してはいなかった。未だ硬直したままのの手を取って立ち上がらせると、引っ張るように店外へ連れ出した。

「今日はもう帰ろう」

「夕飯はどうするの?」

「そんなもの、家にあるもので間に合わせればいい。それに、私は今すぐにでもお前を抱きたい」

 エレベーターを待つ最中でも、こんな会話だ。この人、本気だ、とは悟った。今更何を言ったって聞く耳を持たないのは明らかだった。

 到着したエレベーターに駆け込む勢いで乗り込むと、了見は人目がないことをいいことに、を壁へと押しやり、有無を言わさず深い口づけを交わした。理性も体面も冷静さも消え失せていた。

 甘くて、柔らかくて、ほろ苦いキスだった。

 蕩けた彼女の呼気が、意識の中枢に流れ込んでくる。それが余計に了見の欲望を掻き立てる。

 自宅のベッドに辿り着くまで、この欲望が抑え込めるかは分からない。帰宅して早々に、玄関先で彼女に襲いかかるかもしれない。ただ一つだけ確かなことは、昨夜の分までうんと可愛がってやる、それだけだ。