さようなら



「反吐が出る」
 海馬が、何の断りもなしに新婦の控え室に入り込んだのは数分前の出来事である。声をかけることもノックをすることもなく、乱暴にドアを開け、そうして放った言葉がこれだ。控え室に居たはその言葉を聞いて、眉を下げて困り果てるほか無かった。不機嫌そうな面持ちの海馬、驚きを隠せない様子の両親、そして友人。ピリピリとした冷たい雰囲気が部屋中に充満しだす。原因は言うまでもない。海馬だ。
 このままではと、咄嗟には「二人にして」と両親と友人に言ったのだった。

 いくら結婚式に招待したとはいえ、わざわざ控え室にまで押しかけ、式の主役とも言える花嫁を威圧的な態度で恐れさせようとするなど、いかがなものだろうか。それがいくら大企業の社長だとしてもだ。
 二人きりになっても海馬の不機嫌は治ることは無く、そのような兆しも一向に訪れることはなかった。治るどころか先ほどよりも不機嫌度が上昇しているように感じることもできる。そんな彼を見て、はまた困惑する以外、肩を怒らすことも強気な姿勢で彼を追い出すことも何も出来ないであろう自分を呪った。
「えーっと、どういうつもり?」
 の口ぶりはまるで、反抗期真っ直中の子供を宥めるようであった。顔が引きつりそうになるのを堪え、無理矢理精一杯の笑顔を作る。「お祝いに来てくれたの?」
「いや」
 海馬は口角を少し上げ腕を組むと、蔑むような目つきで純白のウエディングドレスを身につけたを上から見下した。気にくわない。そう彼の瞳が告げているのを彼女は直感的に感じていた。ふん、と鼻を鳴らす海馬の機嫌は一向に悪くなるばかりである。
「馬子にも衣装、が本当かどうか確かめに来ただけだ」
「あのねぇ……」
 全くこの男は、とはやはり呆れるほか無かった。
 高校時代、出会った時からずっとこうだ。自分以外の人間、もしくは自分が認めた人間以外を徹底的なまでに見下し、揶揄する姿勢。「世の先人たちは素晴らしい諺を考えたものだ」と、一人関心する海馬から目を逸らし、ああ、招待状を出す相手を間違えた、やっぱり出さなければ良かった、と改めては後悔した。後悔先に立たずとはまさにこのことである。今更悔やんでも仕方ないだろ! と、海馬に招待状を出すことを激しく拒絶していた城之内の怒号が今にも耳に聞こえて来そうだった。
「ちっとも変わんないね、海馬くん」
「そういう貴様も進歩がなさそうに見えるがな」
「それはどういたしまして」
 こういった海馬のねちっこい言葉責めをはもう高校時代に散々浴びせられていたので、数年ぶりだとしても、高校卒業間近の頃と同じで、怒りに身を任せて彼の感情を扇状するような反論はしないで、適当にあしらった。その方が安全且つ早急に済むのだと、体も脳も口も全てが無意識のうちにそうさせるのだ。
 余り面白みのない反論に海馬はますます不機嫌を募らせた。が、どす黒いオーラが彼を包んでいる幻覚さえ見てしまうほどに。
 彼は近くにあったスツールに腰掛けると、足を組んで今度は舐めるように彼女のウエディングドレス姿を上から下へと忙しそうに目玉を動かして熟視した。つま先から頭の天辺まで、思考さえも見透かされているような、隙のない鋭い眼光だった。
「あのさ、そんなにじろじろ見られると恥ずかしいんだけど」
 は少々照れ臭そうに頬を掻きながら言う。昔は目も合わそうとも視界に入れようともしなかった海馬に、こうも改めて穴が開くほどじろじろ見詰められると、背筋が凍り付きそうになる反面も気恥ずかしくも思えた。
 の言葉を聞いた海馬はそれでも彼女を見詰めるのを止めようとはせず、彼独特の低く呻るような、訳もなくどきりとさせられる声色で言った。
「何故凡骨なんだ」
「は?」
 突拍子もない事を言い出す海馬に、小首を傾げながらはぽかんと口を開け顔を顰める。突然こいつは何を言い出すんだと言わんばかりの彼女の表情に、海馬も負けじと顔を顰め応戦した。端から見れば、気難しい顔を主体とした睨めっこをしているかのようにも見える滑稽な状況であった。
「何故凡骨を選んだのかと聞いている」
 何故選んだのか、イコール、なぜ城之内を夫として選んだのかと聞きたいのだろうか? は脳内で即座に海馬の言葉を独自に脳内変換した。彼の言葉はいつでも同じ歳とは思えないほど小難しく回りくどかったので、は自ずと自然に彼の言葉を脳内で変換するようになっていた。この先全く役に立ちそうのない立つ目処も付かない金儲けにもならない、高校三年間の内に身につけ常用した、の特技とも言える。
 は口元を綻ばせ、言った。
「なんでって……好きだからよ。ずっと一緒にいたいなぁって思えたから選んだの」
「愛しているのか」
 海馬の口から愛などと言う言葉が漏れたことには心底驚きながらも、平然を取り繕った。城之内を愛しているのかと問われれば、答えは一つしかない。
「愛してるに決まってるじゃない」
「くだらんな」
「くだらなくなんか……」
「いいや、実にくだらん」
「私の結婚にケチつける気?」
「くだらないからくだらないと言っているまでだ。それくらい理解しろ、低脳め」
 相変わらずの海馬の言葉に、は腹を立て始めていた。どうして、結婚という人生の第二のスタートも言える幸福な日に、おめでとう等の祝福の言葉も口にしないただの元クラスメートに、こんなにも貶され罵倒され嘲られなければならないのだ、自身の新婦に対する愛をくだらないの一言で一蹴されなければならないのだ、と。
「ちょっと、いい加減にしてよ」
 は声を荒らげる。幸せの絶頂だった気分はすでに台無しだった。「いきなり入ってきて何を言うかと思えば人を馬鹿にするような事ばっかり! 用がないならもう出てって!」
 その瞬間、海馬は勢いよく腰を上げが言い終わると同時に立ち上がった。がたん、とスツールが後ろへ倒れる。床には絨毯が敷いてあったため、幸い大きな音は鳴らずに地面に鈍い衝撃が走るだけとなった。海馬はゆっくりとに近づく。一歩、また一歩と。
 は言葉を続けて彼を追い出そうとしたが、海馬の表情が視界に入った途端、声が喉の奥で詰まってしまい、それが出来なくなってしまった。彼の凍えるような冷たい眼が、いつも崩されること無く周りとの壁を作る原因となっていた強張ったあの表情が、消えているのだ。魅入ってしまうほど変わり果てた彼の顔つきに、は目を逸らすことが出来ない。逸らしてしまことさえ勿体なく思える顔つきに、は身動きが取れなくなってしまった。
 片方の手が、の頬へそっと触れる。海馬の大きな手のひらの滑らかな動きは幻想的な何かを思い浮かべさせた。彼の手のひらから伝わるひやりとしたその感触に、は身を凍らせるような感覚を覚えた。海馬の口が開く。言葉が放たれる。体が動かない。
「綺麗だ」
 ひ、とは息を呑んだ。艶めかしい海馬の口唇の動きが、彼女を虜にするようで、まさか彼の口から自分を賞賛するような言葉が出てくるなど、夢にも思ってみなかったのだ。まるで時が止まっているような錯覚さえ覚えた。ああ、吸い込まれてしまいそう――。
 そう思えたとき。どん、どん、どん、と戸を強くリズミカルに叩く音がを正気に戻させた。
、そろそろ時間よ」
 叩かれた戸の向こう側で母が言う。我に返ったは「はーい」と大きな声で返事をしたが、唐突に大声を出した為か声が裏返ってしまった。しかし、そんな事よりも胸の高鳴りが異様に気になって仕方がない。
「邪魔したな」
 そう言って海馬はの頬からそっと手を離す。彼はすでにいつもと同じ強張った表情、大企業の社長という威厳に溢れた表情へと戻っていたが、最初のような不機嫌さは少しも伺えなかった。清々しく、まるで何か吹っ切れたような。
 が言葉を返さず突っ立ったままでいると、海馬は彼女に背を向け、目もくれずに部屋を後にした。

 海馬が部屋から入るとき時とは対照的に、静かにスローテンポで出て行くのを、先ほどまでの頬に触れていた手のひらがドアノブを優しく握り回すのを、彼女は激しく脈打つ心臓を必死に押さえつけながら見届けた。





slow good-bye
スローグッドバイ