可愛いうさぎの愛し方




 長身199センチメートルのうさぎは、あの渋滞の出来事から一変して、甘えん坊の片鱗を一切伺わせることがなくなっていた。夜中の呼び出しの電話も鳴ら無くなった。ガレージに二人きりでいるときでさえ、キスを待ち望んでいるかのようなかんばせをも浮かべ無くなっていた。今の彼の頭上にはキュートに垂れた長い耳も、お尻に生えたふさふさな尻尾も見えない。

 さも当たり前のかのように日常的に行われていた触れ合いがぱっと断たれてしまうと、私は何とも形容しがたい喪失感を抱かざるを得なかった。彼がこの家に住み着いてからずっと行われていた秘密の交わりが、私の心を構築する支えにもなっていたのだと改めて思い知る。肌と肌の触れ合いで得られる安堵を求めているのはもう、私の方なのだ。

 だからと言って私とブルーノの関係性が希薄になるわけでも、マイナスに働くわけでもない。当たり前のように私は彼と買い物に出かけるし、依頼されたDホイールの修理にだって二人で赴く。今だってそうだ。私の自前のDホイールを彼が操縦し、その後ろに私は跨って、彼の背中にしがみ付いている。

 ヘッドライトを灯した車の列は、夜のハイウェイに光の河を作り出していた。いつぞやかの渋滞の時ほどではないが、車の流れは髪の毛が詰まった風呂場の排水溝のように詰まっており、スムーズとは幾分程遠い。渋滞に巻き込まれた時の教訓を活かし、あれから行動をするときはDホイールをメインとしていたので、私たちはこの光の河を泳ぐようにすいすいとすり抜けていた。

 頬を撫でる風が冷たく刺さる。広大な大海原のような背から伝わる暖かさが、近いようで、遠い。


 ねぇ、ブルーノ。今日も私を求めてくれないの?



***




 ガレージに戻るなり彼は「ちょっとやらなきゃいけない事あるから、先に寝てて」と言って、そそくさとパソコンと睨めっこを始めてしまった。三度の飯よりDホイールとプログラム。彼はそういう人間だ。こうなってしまうと、彼はもう私という存在をおざなりにしてしまう。妙な敗北感に苛まれながらシャワーを浴び、軽く食事を取って、ベッドに横になった。

 のは、いいのだが。

 瞼を閉じても羊を数えても一向に寝付く事が出来ず、時計の針がぐるりと回って深夜1時を示してしまっていた。睡眠導入時によろしくないと分かってはいるが、ついつい枕元の携帯電話に手が伸びてしまう。二つ折りのそれを開くが、着信はない。当たり前だ。あの力強い歌声が聞こえてきていないのだから、彼が私に連絡を取ろうとしたはずがないのだ。

 携帯を半ば投げ捨てて、私は深いため息を吐いた。悶々とした夜を過ごすのはこれでもう何度目だろう。ふと人差し指を口唇に添えて、彼の感触を思い返す。あの柔らかく湿った唇は彼なりの気遣いだ。彼は女性との交わり合い方を心得ている。母性本能の擽り方も、甘え方も同様に。もしかしたら記憶を失う前のブルーノは、それなりにプレイボーイだったのかもしれない。


「……なんかそれって、嫌かも」


 ふと溢れた言葉は、嫉妬心から来るものであると私は瞬時に理解した。でも、誰に対しての嫉妬なのだろう?彼の甘えたな一面を知っているかもしれない女性にだろうか。彼と奥深くまで交わりあったことのある女性にだろうか。こんなの、あくまで想像の内の話であるというのに、考えを巡らせれば巡らせるほど、私の意識は眠りとは程遠いところへ歩みを進めてしまう。


「頭冷やそう…」


 堂々巡りの思考に陥ってしまった以上、寝付けるようになるまでそれなりの時間を要してしまうだろう。散歩にでも出かけて、気持ちをリフレッシュさせるのも一つの手だと思い、私はもそもそとベッドから這い出て手櫛で髪を梳かした。あの甘えん坊も朝から行動していたのだから、流石に床に伏せている事だろう。私は軽やかな足取りで自室の戸を開き、階段を降りた。


「え、ええ…」


 なんとなく、もしかしたらそうなんじゃないかとは頭の片隅では思っていたのだが、やはり予想通りというか、想像に容易かったというか。思わず漏れた声が孕む意図は、予想が的中した喜びでもあるし、呆れでもあった。あろうことかブルーノはパソコンのデスクに腕を乗せ、頭を突っ伏して眠りに入っていたのだ。


「ブルーノ、そんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ」


 忍び足で近寄って、優しく肩を揺するも、反応はない。おーい、と呼びかけてみても、やはり彼はぴくりとも動かない。随分と深い眠りに身を投じているように見えた。一定の緩やかなリズムで揺れる大きな体躯がそれを物語っていた。

 私は側にあった椅子を引き寄せて、ブルーノの隣に座った。頬を机の上に乗せて、腕の隙間から微かに露出している彼の瞼を見つめる。可愛くて愛おしいうさぎの寝姿を目に焼き付けようと思ったのだ。思い返せば、恋人同士のような交わり合いをするようになったのも、こんな風に寝ている彼に私がちょっかいをかけてからだ。始まりは出来心のほっぺちゅー。あれが全ての物事におけるトリガーだったのだろう。彼からの求愛が収束しかけている今、この無防備な瞼に口唇を落としたらまた、あの夢のような夜が、映画のワンシーンのような求め合いが、訪れるのだろうか。私は瞼を閉じて、考えを巡らせる。否。


「でもそれってなんか、負けた気がするなあ…」


 互いを求めることに勝ち負けなど存在するはずがないのだが、私の答えはこうだった。そしてこれは、独り言だ。念を押しておこう。独り言だ。


「何に負けるの?」


 独り言だったはず、だ。レスポンスを必要としない言葉に返答があると、人というのはひどく驚いてしまうように出来ているんだなと、私の頭はどこか冷静沈着に考察していたが、体はそうもいかない。瞬時にはっと目を見開いて、驚きのあまり、私は椅子から勢い良く転げ落ちてしまっていた。


「ちょ、大丈夫?」


 心配そうに私を覗き込むブルーノが、手を差し出している。悪いドッキリでも仕掛けられたかのように私の心臓は素早い脈動を打ち鳴らしていた。


「お、」
 私は差し出された手を取って、立ち上がりながら生唾をごくりと飲んだ。床に打ち付けた腰が痛い。「起きて、たの…?」


 恐る恐る尋ねれば、彼は視線を宙に逸らし、軽くあくびをしながら答えた。


「うーん、起きてたっていうか、気づいたらがそこに居た感じかな」

「なるへそ…」


 ずきずきと痛む箇所をさすりながら、倒れた椅子を元に戻して腰を落ち着けた。みっともない醜態を披露してしまったことによる僅かながらの羞恥を誤魔化すように私は咳払いを零す。


「あのね、ブルーノ。寝る時くらいお布団行きなさい」

「分かってはいるんだけど、どうしてもこれを終わらせたくってさ」


 ブルーノが卓上のマウスを左右に動かせば、瞬時にデスクトップの液晶は光を灯した。ブルーライトが彼の端正な顔立ちを仄かに照らしている。慣れた手つきでパスワードを打ち込むと、黒い背景に羅列された英数字が露わになった。よくもまあこんな難解な物に睡眠を疎かにしてまで夢中になれるなと感心する他ないのは、私がDホイールに対しても制御プログラムに対しても理解を深めていないからだ。


「で、何に負ける気がするって?」
 視線は液晶に向けたまま、彼は問うてくる。「気になるなあ」


「いや、あのね、さっきのは単なる独り言だから…」

「気にしないでほしい?」

「うーん…まあ、」


 ブルーノは「ふぅん」と、挑戦的な吐息交じりの返答をしたが、その横顔は興味津々といったいった様子だった。独り言に孕んだ意を正直に告げるべきか、このままスルーして貰えるように振舞うべきか。二者択一、どうせなら、現状打破に掛けてみようか。テーブルの上に転がっていたペンを手に取り、それをくるくると回しながら私は言葉を紡ぐ。


「最近のブルーノ、なんか、そっけない気がして」

「僕が?どうして?」

「電話もくれないし、それに、私とキスしたいとか言わないし、そういう仕草とかも見せないから、その…」


 今ここで、寝てる君にキスをしたら、また”ああいうこと”が出来るかなって思ったの。


 語尾に進むにつれて、私の声は消え入るようなほどか細いものへと変化していったのだが、言葉はしっかりと最後まで彼の耳に届いていたようだ。マウスのホイールを忙しく回していた指先がぴたりと止まる。一瞬の静寂。それから、微笑。


「ああ、なんだ。そんなこと」


 んん?そんなこと、だと?この悶々とした悩みは、ブルーノにとっては”そんなこと”程度だというのか?もしかして、触れ合いを待ち望んでいたのは私だけ?

 何気ない一言の筈なのに、その言葉は私の心臓をちくりと痛ませた。心を突き刺すようなショックに打ちひしがれ、思わず手のひらからペンが零れ落ちる。音を立ててデスクの上に落ちたペンはころころと転がり、そのまま床へ吸い込まれるように落ちた。その様はまるで私の淡い期待が具現化されたようだった。

 内心のショックを悟られぬよう平然を装い、落ちたペンを拾おうと屈んだその時だった。肩をぐっと捕まれ、強引に正面を向かせられたかと思えば、彼は何の断りもなく唇を重ねてきた。半開きの口唇を割って侵入してきた舌先が、ぬるりと絡まる。珍しく渇いた彼の両唇が、やけにリアルに感じられた。

 突然のキスに驚きもしたが、だからといって拒絶の意を示すことはない。待ち望んでいたそれが訪れた喜びが、私の肢体を、脳髄を、瞬時に支配していた。胸の内から湧き上がる幸福に絆される。とろけるような甘さが血液を循環している。頭で考えるより先に、私は彼の首へ両腕を廻していた。口腔を掻き乱そうとする舌先を追って、求める。ああ、これだ。私はずっとこれを欲していたのだ。


「ねぇ、。もしかして寂しかった?」


 離された口唇から溢れた言葉は図星だった。うう、と私は伏せ目がちに唸ると、彼は満足げな吐息を漏らし、口許をゆっくり吊り上げて、再び口唇を重ね合わせてくる。探るような舌先の動きは先程よりも激しさを増し、挑戦的でもあった。もっとして欲しい?なんて口付けの合間に問うてくる。私はその問いかけに答えるように、彼の後ろ髪をぎゅっと掴んだ。


「前にさ、僕のことうさぎさんって言ってたよね」


 ブルーノは、狙っていたのだろうか。私から求めてくることを。自分の欲望を抑制してまで。


「今じゃ君の方が寂しがりやのうさぎさんみたいだ」


 してやったりとでも言いたげなかんばせを浮かべて、彼はそう言った。無邪気な笑い声とは相反した面持ちに、はっとさせられる。もしかして、なんかじゃない。これは確定事項だ。狙っていたのではない。彼は待っていたのだ。私の我慢が限界に達してしまう今この瞬間を。

 つまり、すべては計算の内で、私は彼の手のひらの上でまんまと踊らされていたということだ。


「……ねえ、ブルーノ。変な事聞いてもいい?」

「うん?」


 彼に腕を引かれて、私は椅子に座る彼の膝の上にもたれ掛かるようにして腰を落とした。大きな体躯に包まれながら、厚い胸板に顔を埋めて、尋ねる。可愛いスウィートなうさぎの容姿を、今だけは直視することができそうになかった。頬が、全身が、熱い。


「私の事…好き?」


 改めて口にしてみると、なんて重たい問いかけなのだろうと辟易せざるを得ないが、どうしても確かめておきたかった。彼が私に対して抱く感情が、確実に特別なものであるのかどうかを。このままじゃ私は、単なる都合のいい女でしかなのだ。彼の口からそれは違うと、真っ向から否定してほしい。


「始めて君とキスをした時に言ったと思うけど、覚えてない?」


 耳元に口唇を近づけて、彼は囁く。


「好きの二文字じゃ足りないくらい、僕は君が好きだよ」


 その言葉に、私は頭の中が真っ白になる。魔法の言葉だ。嬉しくて、今にも涙が溢れそうだった。でも、そんなことよりも。


「そういうの…」

「ん?」

「そういうのは、もっと、早く言って…!」

「あはは。確かにそうだね。ごめんね」


 あっけらかんと、くすくすと軽快に笑うものだから、怒るにも怒れなかった。ブルーノの手が赤子をあやすように頭を撫でてくる。手のひらから伝わる心地よい感触と温もりが、憤怒なんて感情はあっちへ行ってなさいといった風に追い返していた。


はどう?僕のこと、好き?」


 そんなもの、決まっている。私が黙って頷けば、抱擁はより一層強くなった。痛いくらいだった。でもそんなことは気にならなかった。二人の意思が相互した喜びに勝るものなどないのだ。

 蠱惑的な指先が頭上から滑り落ち、顎へと添えられると、彼は優しく私の顔を上向きにさせた。そしてゆっくりと、愛を確かめ合うような彼の唇が堕ちてくる。私はせがむように彼の指を絡め取って握った。


 私たちはそのまま、肌を合わせてお互いの身体を確かめ合った。次第に息が荒くなって、二人の吐息が混ざり合う。ぱさり、とブルーノが羽織っていたジャケットが床の上に落ちた。

 いつ何時、誰かが起きてガレージにやってくるかもしれなかったが、この行為は止められなかった。背徳感こそあれど、奥底に眠る意思がブルーノをひたすらに求めていた。意図しない甘ったるい声が漏れる。背中がぞくぞくとした。私の身体を探るような卑猥な手つきが、欲情を丸裸にさせていく。


 急き立てるような容赦ない動作で、愛しのうさぎは私の全てを蹂躙した。一晩中。