長い間仕事が立て込んだおかげで休日もとれない日々が続いたが、それも今日でおしまい。デスクの向こう側で同僚の鬼柳が生気が抜けたかのように頬を痩けさせぐったりした様相を呈すのとは裏腹に、はこれから訪れるであろう、悦楽に浸れる時間に胸を躍らせていた。瞳はらんらんと輝き、肌は艶やかさを増し、頬を甘くとろけさせ、口元は緩やかな波が描かれている。
ー、何さっきからにやにやしてんだ?」
 鬼柳が気怠げに問いかけてくる。「あ、分かった。これだろ、これ」彼はそう言って茶化すように親指を立てて見せた。彼のその仕草が、一昔前に流行ったいかにも古めかしいジェスチャーであったため、は思わず苦笑を漏らす。
「まあ、そんなとこかな」
 ちらっと視線を廊下側へ逸らせば、青色のつなぎを着た長身男性の姿が視界に映った。ガラス張りの事務所内からは廊下は丸見えだ。長身男性は脚立に登り照明の清掃をしていたが、の眼差しに気が付くと、暖かみのある微笑みを満面に湛えては小さく手のひらを振った。はそれに応えて、鬼柳に気付かれない程度に手を振り返す。
「は、お前彼氏いたの? いつの間に」
「あれ? 言ってなかったっけ」
「聞いてねえよ。んだよ、これから飲みにでも誘おうかと思ってたのに」
 鬼柳としては皮肉のつもりだったのだろう。思いがけない返答に不満足そうに唇を尖らせると書類やら資料やらで散らばったままのデスクに突っ伏した。あーだとかうーだとか唸った末「さっさと別れちまえ」などと人の幸せを踏みにじるような憎まれ口をたたくので、は身を乗り出して鬼柳の後頭部に拳骨をひとつ、食らわせた。
「ってーな、冗談だっつの! 本気にすんな馬鹿」
 このまま口論に転じても面倒なだけなので、目尻に涙を湛えながら抗議する鬼柳はスルーすることにしよう。ぎゃんぎゃんと牙を剥き臨戦体勢の犬のように喚かれても、スルー体勢は崩さない。
 デスクの整理と帰り支度を颯爽と終わらせ、「お先に失礼します」と労いの言葉を口にし事務所から立ち去る。廊下に出れば、例の長身男性は照明の掃除を黙々とこなしていた。仕草のひとつひとつへ、無意識のうちに目が奪われてしまいそうになるほど、真剣な面持ちで。
 こんなに格好いい清掃員が自分の彼氏である現実が、喜ばしくもあり、自慢でもあった。実際この会社に勤める女性社員の間で彼は”イケメン清掃員”ともっぱらの噂なのだ。その話題を耳にする度、誇らしい気持ちで胸がいっぱいになる。恋のライバルだとか誘惑とか、不思議とその手の不安に苛まれることはなかったのは、に絶対的な自信があるからだろう。
「おーい、ブルーノ」
 がエレベーターに乗り込む際、中年の清掃員が彼の名を呼ぶ声が聞こえてきた。緩慢に締まりゆくエレベーターの扉とは正反対に、の口元は半開きでだらしがない。口端からは僅かに唾液が光っている。同じエレベーターに乗り込んでいる人々から、本来なら不審者に向けるべきであろう胡乱な眼差しを送られているというのに、当の本人はそれを気に止めることもなく、相違的で素っ頓狂で自惚れにも程がある感情を抱いていた。
――名前も格好いいよなあ、と。
 今のに相応しい言葉が「恋は盲目」であるのは、まず間違いない。



 スーパーにてアルコールとつまみと夕飯の食材を買い揃え、帰路の途中にあるレンタルショップにて海外ドラマの新作DVDを借りた。今日はのアパートで会話とドラマを酒の肴に、ブルーノと二人でのんびり羽を伸ばす予定だ。お互いに、というよりが休暇をとる暇が無かったので、オフィス以外で顔を会わすのは実に何日ぶりだろうか。ひぃふぅみぃ、と指を折って数えてみると途端に嬉しさが込み上げ、アパートへ向けて歩を進める度にスキップをしたい衝動に駆られる。そしてついには衝動は理性をはね除けてしまった。
「ねえいまーどこーっ、地球ーんなかーっ」
 ヒールを履いたままちぐはぐな歌を口ずさみ、リズムとスキップを融合させて、その中に身体を乗せる。いい歳した女のその異様な様は、傍目からどう見ても変人そのものだ。
「ねーママ、へんな人がいるよー」
「しっ! 見ちゃいけません!」
 こんなベタベタな会話まで繰り広げられた。だがやはり、当の本人は気付くこともなく、ましてや己の今の姿行いが異形であると自覚していないのだから余計にたちが悪い。裏を返せばの感情表現は、直球ストレートそのものであると取れるかも知れない。ただ、今のの状態は行き過ぎといっても過言ではないが……。
 アパートの階段をリズムよく駆け上がり、ノブに鍵を差し込んで部屋の中へ入る。たかぶるの衝動は止められそうにない。歌を口ずさんだまま、買い込んだアルコールを冷やすべく真っ先に冷蔵庫へしまう。
――そうだ、お風呂沸かしておこう
 ブルーノはいつも自宅へは戻らず直行でのアパートへ向かってくるので、大抵が埃まみれだったりどこかしら薄汚れていたりする。さすがにこの状態のままいちゃつくのは、とブルーノが気を遣い(からしてみればどうでもよかったりするのだが)、いつも真っ先にシャワーを浴びるのが習慣になっていた。
 そう思った矢先、部屋中にチャイムが鳴り響いた。ばたばたと足を踏み鳴らして玄関に向かい、躊躇いもなくノブを捻る。訪問者が誰だかなんて、覗き穴を使って確認するまでもない。
「やあ、お疲れさま」
 ドアを開けると、開口一番にブルーノは労いの言葉を述べた。天使のような微笑みを向けて。ブルーノは癒しそのものである。ペットや子供のような無垢な面影が今だ片鱗を見せており、にとって彼の微笑みはマイナスイオンの発生源のようなものだ。ブルーノの顔を拝むためにはうんとこうべを上げなければならないが、それによって首に痛みが走ろうとも厭わない。愛の力は偉大である。
「おじゃましまーす」
 長身の彼はそのまま室内に入ろうとすると額を思い切り強打する悲惨な目に遭ってしまうため、僅かに身を屈めて玄関を潜った。内鍵とチェーンを掛ける手つきは慣れている。
「もう、そこはお邪魔しますじゃなくって、ただいまでしょ」
「あ、ごめんごめん」
 ブルーノは照れ臭そうにはにかむと、じゃあ、と仕切り直す。「ただいま、
「おかえり、ブルーノ」
 間を置いて、羞恥を覚える。ふっ、と照れくささを誤魔化すように笑いあった。
「お風呂にする? って言いたいところなんだけど、私も今帰ってきたばっかりだからまだ沸かしてないの」
「大丈夫だよ、シャワーで済ませてくるから」
 ブルーノの荷物を受け取り、は脱衣所に消えゆく大きな後ろ姿を惚れ惚れと見送った。ああなんて格好いいんだろう。反則だ。頬に手を添えてうっとりと悦に入る。感情は高まるばかりで、何人たりとも止まることを知らない彼女の滾りを抑えるのは困難を極めるだろう。
 それは自身も思っていたことだった。ただ、この瞬間までの話ではあるが。
 キッチンへ戻った際に、携帯から流れる旋律にの気の高まりはさっと一瞬にして冷めてしまったのだ。いや、冷めたと言うよりは降下したと言うべきか。久方ぶりに携帯から流れたボブ・ディランの歌声に、まさかこんなに気分を降下させる効果があったとは。駄洒落ではなく、本気で。
 呆然と立ち尽くしていると、ディランは歌声を一旦休めた。だが間を置かずに、ディランはまた「Knock, knock, knockin' on heaven's door...」と音程なんて置き去りにして語りかけるように繰り返し始める。
 この音楽を聴いたのはもう何年前の話になるだろう。それに、未だにある特定の三人からの着信音として設定されていたことにも驚愕した。枯れ木のように風化していた思い出が蘇り、情景がまざまざと脳裏に浮かぶ。
 二つ折りのそれをそっと鞄から取り出して、開く。そしてディスプレイに表示された名前を見て、懐かしさとおぞましさがない交ぜになり、少しだけパニックに陥ってしまった。結局ディランは歌声を再び萎ませたが、二度あることは三度ある、ディランはまた歌を再開させる。心なしかより一層苦しそうな歌声にも聞こえた。無理もない、同じフレーズを三度もリピートさせられれば、流石にディランでも若干のストレスは堪ってしまうだろう。
 表示された名前を、一字一字追いながら、声に出した。
「ふどう、ゆうせい」
 瞳が潤いを欲している。瞬きの仕方を忘れていた。喉をごくりと鳴らして覚悟を決める。歌声が途切れるまえに、両方の親指でえいっと通話ボタンを押して、おそるおそる携帯を耳に添えた。
「……もしもし?」
「よかった、やっと出てくれた」
 胸をなで下ろしたような口ぶりの、懐かしい声色が電波に乗って耳にじんわりと、熱を帯びた感覚として残る。「久しぶりだな、
「ゆっ、」
 思わず言葉に詰まってしまう。「遊星、なの……?」
「他に誰が居るんだ?」
「だって、びっくりしちゃって」
「まあ2年3ヶ月と27日ぶりの電話だからな、驚くのも無理もない」
「そ、そう」
 詳しい年月をさらりと述べられて、は顔を引きつらせた。超越した記憶力は健在なのか。こう言っては何だが、気味が悪い。
 遊星はが顔を蒼白くさせてるなど思いもしないのだろう。彼にしては珍しく、喜悦の篭もった口調で話を進めていく。
「これから久しぶりに呑まないかと思ってな。四人で」
 唐突な誘いよりも、彼の言葉の最後に引っかかりを感じた。の眉間には見る見るうちに皺が寄り始め、ブルーノには到底見せられそうにもない程崩れた顔つきになる。
「四人……?」
「ああ、ジャックとクロウと一緒に」
「あの、ごめん、今日はちょっとむり――」
 遊星はの言葉を遮って平静に話を続ける。
「実は今、お前が住んでるアパートの目の前に居るんだ。寄ってもいいか?」
「えっ」
 おい。
 いまなんつった?
 いまなんつった?
「ちょっと待って、どういう……」
「確か、三階の一番隅の部屋だったよな」
 あったぞ遊星! ともう一人の聞き慣れた声が聞こえた。事態の急展開ぶりに追いつけないは、それは電波の先から聞こえたものなのか、それとも玄関の先から響いてきたものなのか、それすらも分からなくなるぐらい気が遠退いていく。
 間隔が開かないうちに、チャイム音が何度も何度も部屋中に繰り返される。にとってこの現実は、ホラー映画のワンシーンのように感じられた。
「ジャック、そんなに押してやるな」
 ただ、遊星のその一言に、今起きている事柄が現実なのだと思い知らされる。
「どういうことなの……」
 頭の中が真っ白、という状態をは身をもって体験することになってしまった。携帯を耳に当てたまま、ふらふらと覚束ない足取りで玄関に向かう。チャイムはうるさく鳴らされ続けている。内鍵を外せば、が扉を開けるよりも早くそして勢いよく、強制的に開かれた。チェーンが掛かっていたおかげで全開にはならなかったが……。
 開かれた隙間からは懐かしき旧友の姿が三つほど確認できた。一人は鋭く光らせた瞳を携えて佇み、もう一人はその奥でしてやったりとほくそ笑んでいて、最後の一人は携帯を耳に押し当て無表情のままこちらを見据えている。の手から携帯がするりと滑り落ちた。
 久方ぶりの再会に喜ぶべきなのか歓迎すべきなのか辟易すべきなのか、それとも糾弾すべきなのか――未だ状況を把握しきれていないは、餌を求める金魚のように口を開閉させるしか出来ずにいる。
、さっさとこれを外せ!」
 鬼のような形相で、ドアを壊さんばかりに引いている男、ジャック・アトラスが言い放った。彼の加減を知らない馬鹿力のためか、チェーンとドアが悲鳴を上げている。
 壊される。何もかもが。呆然としたままだったははっと我に返ると、開かれた扉を閉じようとノブを掴み、有りっ丈の力で引っ張って拒絶の色を見せた。力の差は歴然としていたが、それでもそうせずには居られなかった。
「何をしている、オレは外せと言ったんだ!」
「いやだっ、絶対に外すもんか!」
「この俺と張り合うつもりか、いいだろう、受けて立ってやる!」
「んぎぎぎぎぎ……」
 歯を食いしばり足を踏ん張って、どうにかしてでも閉じてやろうとやるが、扉は閉じてくれなさそうだ。心なしかチェーンが歪み始めた気がする。
「遊星! あれを使うぞ!」
「おいおい、別にそこまでしなくても大丈夫なんじゃねえの?」
 後ろで面白い物でも見るかのようにへらへらしていた男、クロウ・ホーガンが身を乗り出してきた。いきりたち唾を飛ばすジャックの懐に潜り込んで、扉の隙間へ手を差し込むと、チェーンの引っかかりを外そうとしてくるではないか。はぎょっとしてノブに掛けていた片方の手のひらでクロウの手を追い払おうと試みる。思い切りひっぱたいてやると、いでっ、とクロウはを悲鳴を上げた。手を引っ込め庇うと、余裕に満ちていたクロウの表情が、激しい剣幕を見せる。
「遊星っ、あれ出せ! こんな鎖ぶっ壊しちまおう」
「やれやれ」
 遊星はどこからともなく”あれ”と呼ばれた器具を取り出した。まさか、とは冷や汗を額から流す。その器具がチェーンカッターであることは、遊星が器具をチェーンに当てた事で明白となった。
「ちょっと何してんのよ! 器物破損で訴えるわよ!」
 焦るとは裏腹に遊星は表情をさっぱり変えずにいたが、どこか愉快そうではあった。
「そこまで拒絶することないだろう」
「するに決まってるでしょ! あんたたち今まで私に何やらかしてきたか覚えてんの?!」
「何のことだ?」
 遊星はの発言が理解できないのか、ジャックとクロウを交互に見遣る。二人はというと心当たりがあるのか無いのかどちらともつかない表情で「さあ」と述べた。
「このくそったれどもがああああ」
「口の悪さは健在か。モテないぞ」
「ほっとけ!」
 の抵抗も虚しく、チェーンは無惨にも真っ二つにされてしまった。扉は勢いよく開き、その反動ではジャックの鳩尾にタックルをかます形で投げ出される。ジャックは思わぬ攻撃を避けられずまともに食らった。蹌踉けてバランスを失ったジャックの後ろにいたクロウは、倒れ来る巨躯を避けられず。三人はドミノ倒しの如くその場に倒れた。
「ってー……。何してんだよジャック、さっさとどけっ」
「おいさっさと起き上がれ、重い! 漬け物石かお前は」
「失礼な、そんなに重くないわよ!」
 幼子のように感情をむき出しにして言い争いを繰り広げる三人を横目に、遊星はに問いかける。
「お邪魔して良いか?」
 チェーンカッターを使ってまで無理矢理扉をこじ開けたというのに、今更そんな許可を取りに来るとは、どうしてそこで無駄に律儀なのだろか。しかし、遊星は問いの返事を待たず、既に靴を脱ごうとしている。言っていることとやっていることがめちゃくちゃだ。の動きは、この時のみ俊敏だった。動きを静止させようと遊星の前に立ち塞がり、肩を掴んで追い返そうと試みる。
「だめだめだめ、絶対にだめ、百歩譲っても今日だけはだめ!」
「どうしてだ。せっかく酒もつまみも沢山持ってきたのに……」
「だめったらだめなの! だって今日はブルーノが――」
 考えるよりも先に口走ってしまっていた。しまった、と大げさに手で口を押さえてはみるがもう遅い。遊星は見る見るうちに表情を曇らせていく。
「おい」
 ガラス玉のような凍て付いた蒼い眼球が鋭くを突き刺す。「ブルーノって誰だ」
 やってしまった。大事に積み上げてきた恋の積み木が激しく音を立てて崩れゆくヴィジョンが、の脳裏に映る。
 ブルーノ出てきちゃだめ、という願いも、虚しくも同様に。の切願は叶うことはなく、間延びした穏やかな声が脱衣所から響きこちらへ向かってきていた。
「どうしたの~、また新聞の勧誘?」
 ぺたぺたと足を踏み鳴らして近寄るブルーノへ向け、これから起こるであろう身の危険を示唆すべく、は声を張り上げた。
「ブルーノ逃げて!」
「へ?」
 一番素早く行動を起こしたのはジャックだった。土足のままずかずかと上がり込んでは猛獣の如く声のした方へ歩を進める。がジャックの動きを制そうと伸ばした手は無惨にも振り払われてしまう。クロウと遊星もジャックに続いていった。
「あ、あの……」
 突然目の前に現れた謎の男三人組にブルーノは動揺を隠せない。彼の今の格好はほぼ全裸とも言える、腰にタオルを巻いただけだったので気恥ずかしさも生まれる。「新聞ならぜんぶお断りしてるんですけど……」
「こいつか、に付いた悪い虫は」
 ジャックは自身と同じほどの背丈の男を凄んでみせた。舐めるように全身を観察し、ふん、と鼻を鳴らす。今にでも殴りかかりそうな雰囲気で……、というよりもう既に拳をわなわなと震わせているではないか。
「止めてくださいっ、暴力反対!」
 ブルーノは降参と言わんばかりに両手を上げた。命乞いにも耳を傾けないジャックが拳をぶつけようとしたのを、遊星が静止させる。
「ジャック、とりあえず靴は脱いだ方がいい」
 そうじゃねーだろ、とクロウが適切な突っ込みを入れる。ブルーノが腰に巻いていたタオルが微かに音を立てて床に落ちた。その場が瞬時に凍り付く。
「はあ……」
 額に手を当て項垂れる。どうしてこうなるかなあ。は己の悲運を呪わずにはいられなかった。



 尋ねたいことは山ほどあった。どうしてこの場所が分かったのかとか、どうして彼氏がいることを知っていたのか、とか。問いかけだしたら決壊したダムから溢れ出る水のように言葉が連なっていくだろう。ただ、にそうさせてくれないのは、彼女と、その彼氏ブルーノを三人が圧倒的支配力と威光で押さえつけているからだろう。実際に三人は立ったまま腕を組んでいるのに対し、とブルーノは正座を余儀なくされている。
「どういう事なのか説明して貰おうか」
「説明して欲しいのはこっちの方だっての……」
はちょっと黙っててくれ」
 遊星は口振りは淡々とした抑揚のないものだった。冷たく突き放されるような。「ややこしくなる」
「あの、説明ってなんの……」
 ブルーノがおずおずと口を開く。訳も分からず今に至っているためか、彼は狼狽を隠せないようだ。
「そうだな。まずは自己紹介でもして貰うか」
「おい遊星、そんなことより関係がどこまで進んでいるのか聞くべきだろう」とジャック。
「あのなあ、順序ってもんがあんだろ」とクロウ。
「いや、ここは彼の素性を知ってからの方が一番手っ取り早い」
 手っ取り早いもくそもあるか、とは睨んで見せるも、その視線はいとも容易く流される。
「えっと、僕ブルーノって言います」
「ファミリーネームは?」
「そういうのちょっと分からなくて……」
 ブルーノの声は語尾になるにつれ萎んでいった。「すいません」
「は? わかんねーってなんだそりゃ」
 クロウが頭上に幾つものクエスチョンマークを浮かべる。「家族は? 年は? 出身地は?」
「僕、記憶喪失なんです」
 惜しみない追求に居た堪れなくなったブルーノが発した言葉は思いがけないものだった。三人は揃って顔を見合わせ、それぞれが困惑の色を見せる。
「記憶喪失ぅ?」
 流石幼なじみとでも言うべきか、それぞれが抱いた疑念は見事にシンクロしていた。口にした言葉も発言のタイミングも、全てが見事完璧に揃っていた。
「記憶がないっていうか、曖昧で」
「そんなわざとらしい嘘が通用するとでも……」
 ジャックが怒鳴ると、ブルーノは縋るように指を絡めた。
「嘘じゃないんです、信じてください!」
 今にも泣きそうな表情で迫る巨躯に、しかもブルーノはまだ腰にタオルを巻いただけの状態だったので、ジャックは思わずたじろいでしまう。ほぼ全裸の男に迫られて何が嬉しい。
「ええい近寄るな! 気色悪い!」
 ジャックが犬を追い払うように手を払った。ブルーノはショックをうけたのか単に大人しくしただけか、しゅんと身を縮こめる。
「そうか、調べても何もデータが出てこなかったのはその所為か」
 納得したのだろう、遊星は一人顎に手を添えてうんうんと頷いた。
「あのさあ……」
 遊星の命令で口を噤んでいたも、徐々に堪忍袋の緒が切れかけてきていた。心の内に溜め込んだ疑念を投げ付けるように怒濤の勢いで吐き出す。「調べたってなによ、調べたって。ていうか何で私に彼氏がいるって知ってるわけ、ここに住んでることも!」
 立ち上がり、遊星に掴みかかろうとするをブルーノは「落ち着いて」と宥める。目尻を吊り上げ取り乱すを見たのは初めてのことだった。そんなブルーノの制止を振り払いは言葉を紡ぐのを止めない。遊星の胸ぐらを掴んで前後に激しく揺さ振らす。
「さあ吐けっ、吐くんだっ、情報を漏らした裏切り者の名前を!」
 がくんがくんと揺す振られながらも、遊星は平静を崩すことはなく、やはりどこか愉快そうなのだ。はははと遊星にしては珍しい笑声を零しながら、とんでもない答えを口にする。
「お前の親父さんが嬉しそうに話していた」
 えっ。の手の動きがぴたりと止まった。「俺の親父に」
 そういえば、数ヶ月前実家に帰省した際両親に、彼氏ができたとうっかり漏らしてしまっていたのを忘れていた。だがその後何度も何度も「他言無用」と念は押したはずだ。
「堅気な人かと思ってたが、意外と酒に弱いんだな。住所も勤め先も聞いたらぼろぼろ話し始めたらしいぞ」
 ジーザス、なんということだ。は衝撃の事実に茫然自失になった。力無く、遊星の胸ぐらから手が滑り落ちる。父よ、あなたは悪魔か。
「そう……そうなの……」
 へなへなと崩れ落ちたをブルーノは支える。大丈夫? と案じるが返事はない。
「いきさつは分かった……それであんたたちは、また私の幸せを壊しに来たってわけね」
 また? ブルーノは小首を傾げる。
「人聞きの悪いことを言うな。俺はこの男がに相応しい相手かどうか見極めに来ただけだ!」
 ジャックが声を荒げたが、負けじともそれに応戦する。
「だから、それが人の幸せを踏みにじってるって言ってるのよ! このばかニート! 迷惑だっていい加減理解しろ!」
「なんだと、貴様、もう一回言ってみろ!」
「何度でも言ってやる、ばかばかばか、ニート!」
 なんて低レベルな争いなんだ……ブルーノはの子供じみた一面にただただ驚くばかりだった。遊星は二人を止めることもなく、平和だななんて口にしてる始末だ。ついには取っ組み合いが始まり、おろおろしていると、現況に飽きていたクロウがブルーノに向けて言い放つ。
「とりあえずお前、服着てくれば?」
「あ、はい……」
 か細い声返事はとジャックの口喧嘩によって掻き消されてしまった。



 ブルーノが着替えを終えて戻ると、酷い有様に目を疑った。整理整頓が行き届いていた綺麗な部屋だったのに、まるで台風が過ぎ去った後のように荒れ散らかっているではないか。は頬を膨らませて部屋の隅で膝を抱えているのに対し、三人は我が物顔で腰を落ち着けていた。
「えーっと……なにか飲み物持ってきますね」
 あまりの居心地の悪さにブルーノはキッチンへ逃げた。冷蔵庫を開けて何か無いかと漁っていると、後ろから唐突に「ごめんね」と声を掛けられ身体をびくりと震わせる。
「わっ、か、びっくりした」
「あ、ごめん」
 しゅんと落ち込んでいる様は、先ほどまで青筋を立てていたとはどう見ても別人にしか見えない。
「あの人たち、のお友達?」
「まあ、そんなとこかな。友達って言うよりは腐れ縁みたいなもんだけどね」
「へえ……」
 はグラスを三つ用意する。
「遊星は牛乳ね、クロウはコーラ、ジャックは……水でいいや」
「あ、うん」
 冷蔵庫から言われた物を取り出しグラスに注ぐ。は水道水を注いでいた。いいのかそれで。
 不安が杞憂に終わる――わけがなかった。案の定、それぞれに持ち運ばれた飲み物の差に、ジャックはテーブルを叩いた。
「なぜ俺は水なんだ! 客人にコーヒーの一つや二つ用意もできんのか!」
「あんたの口にあうコーヒーは我が家にはありません」
 の冷たい物言いにジャックは悔しそうにうなった。は荒れた部屋を片づけ始める。果たしていつまでこの招かれざる客人らはここに居続けるつもりなのだろうか。ブルーノがそわそわと大人しくできずにいると、徐に遊星が静寂を切り裂いた。
「これ、が読んでるのか?」
 遊星の手の中にあったはパソコン雑誌とバイク雑誌だった。
「ああ、それブルーノの」
 言葉は酷く刺々しかったが、さして遊星は気にも止めない。それどころか目をらんらんと輝かせてブルーノに迫って居るではないか。えっ。ブルーノは向けられた期待の眼差しに身を強張らせる。
「好きなのか、こういうの」
「ええ、まあ……」
 まさか自分の趣味がこのような形で役に立つとは。思いもよらない奇跡にブルーノは思わず感涙にむせびそうになる。



 が部屋を片づけているあいだに、ブルーノは既に三人とうち解け合うことが出来てしまった。主に遊星と。クロウはいざ話してみると人柄のいい男であるのが分かり、ジャックはブルーノに対して敵対心がむき出しのままではあるも、初めほどではない。
「随分詳しいんだな。その知識を生かせば清掃員でなくても食っていけるだろう?」
「記憶喪失だと何かと面倒らしくって。でも掃除もやってて楽しいから、このままでもいいかなって」
 会話を続けるにつれ、敬語を使いどこかよそよそしかったブルーノも遊星らに親しみを感じ始めていた。何せ身元不明の身である。塞ぎ込みがちなブルーノにとってマニアックな会話を交わせる同性の存在には胸を躍らせるばかりであった。
 そして話の成り行きで酒を飲み交わすことになった。終始嫌々と拒絶の気色が失せなかったも、楽しげなブルーノを目の当たりにしては、半ば諦める形でそれを承諾するしかない。遊星らが持ってきた酒と、が買ってきた酒、そしてつまみ類をテーブルに並べる。は掃除を終えると夕食を作るべくキッチンに引っ込んでしまった。
「悪かったな、脅すような真似して」
 既にビールを2缶空けたクロウが歯茎をにっと見せて笑う。「と付き合っていける男は堅気の野郎ぐらいだと思ってたからなあ、ちょっとからかいたくなってよ」
「見掛けによらず気が強くて大胆だしな」
「なぜ女に生まれてきたのか不思議で仕方がない」
 三人からのこの言われようにブルーノは驚くばかりである。なにせ自分の中での像と食い違う言葉ばかりが出てくるのだ。大胆だの気が強いだの。
って小さいときやんちゃな子だったの?」
「やんちゃなんてもんじゃねえよ、あれは。なあ遊星」
「そうだな……男勝りすぎるというか……何というか……」
「ちょっと、ブルーノに何変なこと吹き込もうとしてんのよ」
 幼少期のにぴったりな言葉を探していると、トレーに食事を載せたが現れた。運ばれてきた料理がカルボナーラだったことに三人は感嘆の声を漏らさずにはいられない。
「ちゃんと食えるのか、これは」
 ジャックの発言に青筋を立てただったが、ブルーノの前でこれ以上醜態を晒したくないという思いから出かかっていた言葉をぐっと喉の奥で堪える。張り詰めた空気を宥めるようにブルーノは笑顔を振りまいた。
「まあまあ、とりあえず食べてみてよ。美味しいから」
「成長したんだなー。昔はうどんを茹でようとして火事になりかけたってのに」
「そういえばあったな、そんなこと」
「調理実習で椎茸の軸と石づきを落とさずに煮込んでいたときは流石に頭を心配し――」
 恥ずかしさで居た堪れなくなったがジャックの口を押さえつけた。「っの、何をする!」
「やめてよおお、人の黒歴史をさらけ出すのがそんなに面白いかああ」
 目尻に涙を溜めたが必死になって訴えかける。
「ああ、あったあった、あれは最高に笑った」
「懐かしいな」 
 クロウと遊星は呑気にそんなことを口にする。ブルーノもの意外な一面に笑わずにはいられなかった。出来たてのカルボナーラを啜る。美味しいパスタを作れる子にそんな過去があったなんて、実に驚き入る話だ。
ってもっと清楚でおしとやかに育ってきたイメージだったんだけど」
 カラン、と遊星とクロウが手にしていたフォークを落とした。何か変なこと言ったかな、と怪訝に眉をひそめたが、間を置いて、爆笑の嵐が起こる。
「わははははっ、清楚でおしとやかあ? 騙されてっぞおまえ!」
 クロウが笑い崩れながら訴えてくる。クールで表情を崩さない遊星もこの時ばかりは込み上げる笑いを抑えられないようで、顔を背けながら小刻みに肩を揺らし吹き出していた。
「そういうのとは無縁の人間だぞこいつは」
 ジャックが指を指しながら告げるとは彼の両頬を思い切り抓る。負けじとジャックも抓り返す。
「今日は飲んでやる! ちくしょうめ!」
 がブルーノの飲んでいたビールを引ったくって、一気に飲み干すと歓声が沸いた。こうなったら自棄酒だ。ぶっ倒れるまで飲んでやる。空になった缶を有りっ丈の力で握りつぶした。



 ぶっ倒れるまで飲むと意気込んだのはいいものの、倒れたのはではなくブルーノの方だった。酒に強い方ではないのに、ウイスキーの水割りを大量に飲んでしまったのだ。今は部屋の隅で猫のように丸まって眠りこけている。
「ていうかさぁ~、あんたら本来の目的は何なのよ」
 バラエティ番組を見つつ、昔話に花が咲いた中、今更すぎる問い掛けをようやくは口にすることが出来た。「ブルーノとはちゃっかり仲良くなってるしさあ。私の幸せをぶち壊しに来たんじゃなかったの?」
「単にお前の彼氏が相応しい人物か見極めに来ただけ、と言っただろうが」
「それは何度も聞きましたとも。ええ。彼氏が出来る度にね!」
 酒の魔力によって感情の起伏が激しい。ブルーノの残した水割りをこれまた一気に飲み干して、グラスをテーブルに叩き付けた。「風馬先輩のときもプラシドくんのときも氷室さんのときも! そう言っていっつも人の恋路を邪魔してきたくせにぃい」
 テーブルに伏せてわっと泣き出されても三人が驚くことはなかった。またか、と冷めた視線を送るのみだ。
「だから私は生まれ育った故郷を離れてここに来たのよ、あんたたちにもう二度と恋の行方を邪魔されまいとね! それなのに――」

 必死の主張をしている最中に遊星がの肩を叩く。鼻水を垂らしたまま顔を上げると、無表情で遊星は問うた。「これ、お前の携帯か?」
 遊星の手にあるのは紛れもなくの携帯だった。なんてこったい。
「ちょ、返せ、返して!」
 データフォルダには、特に遊星らには見られたくない画像がぎっしり詰まっているのだ。ブルーノとのプリクラとか、写真とか、……チューしてるのとか。全身からさっと血の気が引いて、泣き上戸気味だったは自我を取り戻す。携帯を奪おうと遊星に飛びかかるも、いとも簡単にそれを受け流されてしまった。携帯はジャックの手に投げ渡される。
「よほど見られたくない様だな」
 口端を吊り上げてジャックは悪魔のような笑みを浮かべた。他人の携帯を見ようとするなんて、プライバシーもくそもあったもんじゃない。
「ごらあっ! 返せええええっ」
「クロウ!」
 ジャックに突撃をかますと同時に、今度はクロウの手に携帯が投げ渡された。こんなの、小学生のいじめだ。半べそをかきながら必死に携帯を奪い返そうとするも、男三人、息のあったコンビネーションを発揮されてはは手も足も出ない。
「うわあああん、お前らなんかしんじまえっ、氏ねじゃなくて死ね!」
「そのネタはちょっと古いぞ」
 何度携帯が弧を描いたときだろう。絶体絶命の危機に救世主は覚醒した。酔い潰れていたはずのブルーノがのっそり起きあがり、いつになく身体を軽快に動かしては宙を舞った携帯を手に取ってみせたのだ。あっと言う間の、ほんの一瞬の出来事に驚きを隠せない四人だったが、ブルーノは携帯をへ手渡すと同時に「うっ」と、込み上げる嘔吐感に顔を歪ませてトイレへ駆け込んだ。
「んだよあいつ、ノリ悪ぃな……」
 クロウが口を尖らせてそんなことを言うものだから、は足元に転がっていたビール缶を手にとってクロウの顔面目掛けて投げ付けた。見事彼の額に命中する。そしてブルーノの後を追った。



「ブルーノ、ありがとね。大丈夫?」
 声を掛けるもブルーノはトイレにて蹲ったままピクリとも動かなかった。寝てしまったのだろうか、心配になって顔を覗き込むと、彼の目は閉じてはおらずぼんやりと宙を泳いでいた。顔面蒼白とはまさにこのことだろう。介抱すべくはブルーノの背をさする。
 視点の定まっていなかった瞳が、急に熱を持った。鋭さの増した眼光がを捉える。背中をさすっていた方の二の腕を強く捕まれ、引きずるように壁に背を打ち付けられた。閉じかけていた戸をきっちり閉めて、身体をこれでもかと言うほど密着させる。突然の行動にが目を白黒させてもブルーノはお構いなしだ。の唇を強引に塞ぎ、甘く噛みながら服の裾へ手を滑り込ませて、執拗なまで背をまさぐる。
「んぅ、む……ちょっと……リバースはどうしたっ」
 強引に押し込まれる舌にブルーノの背を何度も叩いて拒絶を示すが、効果は無い。
「キスのときぐらい黙ってたら?」
 ぴしゃり。冷たく諭されてしまった。背中を這っていた手のひらが下着のホックを引き千切るように外す。
「どうしたの、ねえ、もしかして、怒ってるの?」
 ブルーノのひんやりとした手がの乳房を包み込んだ。ぎょっとして身を捩らせるが、この狭い空間において逃げ場があるはずもなく。まさかとは思うがここでやるつもりなのか……。
「怒ってなんかいないよ? 妬いてはいるけど」
「え……」
 ブルーノは早口に告げると、電池が切れた玩具のようにぷつりと動かなくなってしまった。顔をの谷間に埋めて。
「ブルー……」
 刹那、の腹に向けて吐瀉物がぶちまけられる……。
「おえええええ……っ」
「ぎゃああああああああああああああああ!!!」
 近所そこらに響き渡るような絶叫だった。何事かと三人が駆けてくる。そしてトイレにて引き起こされた悲劇を目の当たりにし(しかもの衣服は僅かに乱れているときた)、それぞれが顔を引きつらせるのだった。
 きっと今日は厄日なんだ。そう思えば、突然の幼なじみの来訪も、彼氏の嘔吐も許してしまえそうな気がする。あくまでも、気がするだけだけど。



 胸の辺りが厭に苦しい。うなされ目を覚ませば、クロウの足が遊星の胸に乗り上げていた。彼の眠りを妨げることのないよう、そっと乗り上げる足を退かす。開け放たれたカーテンからは暖かな日が差し込んでいた。辺りは空き缶や食い散らかされたつまみの袋で散乱としている。うつらうつらとする瞼を擦り、あくびをひとつ。煙草でも燻らせるかとベランダへ出ると、先客の存在に驚いた。ブルーノが隅で膝を抱えながら、短くなった煙草を銜えていたのだ。
「おはよう。意外だな、君も吸うのか」
「あ、おはよう……ございます」
 どこかきまりが悪そうではあった。それもそうか、自分の彼女に寝げろをぶちかましておいて平然としていられるの人間などいるはずもない。
「……、怒ってた?」
 ブルーノは煙草を地面に押しつけて捻り潰しながら遊星に問う。
「さあな」
 遊星は意地悪く答えてみせる。「でもあいつなら、ブルーノのげろも問答無用で愛してくれるかもしれない」
「はあ……」
 返事とも溜息とも取れない声をブルーノは零す。遊星はどんよりとしたオーラを身に纏うブルーノを横目に、煙草のフィルターを銜え燻らせる。
――楽しみが増えたな
 思わぬ収穫にサド心に火が点いたとでも言うべきか。寝覚めの一服を肺で満喫し、紫煙を吐き出す。頭のなかでこれからの計画を練り始めた。
「あのさ……、って遊星達のなに?」
「どういう意味だ?」
「元彼とかそういうのかなって。は腐れ縁って言ってたけれど、すごい親しげだし、僕、今まで君たちの話聞いたこと無かったし」
「そんなんじゃない。の言うとおり、ただの腐れ縁だ」
 20年以上のな、と心の中で付け足す。これはこの先、ブルーノの不安を煽る材料として取っておくべき台詞だ。「あいつと居ると面白いだろ」
「まあ、それなりに」
「特に反応が。ついついからかいたくなる」
「え、それって、どういう……」
 意味なのか――出かかった言葉は喉の奥で突っ掛かる。何となく察しは付く。遊星の整った容貌からはとても汲み取れそうにない、奥に潜んだ欲に触れてしまうのはおぞましく、身の危険さえ感じられる……。
「ああもう、こんな所にいた」
 ベランダのガラス戸が開き、隙間からが顔を覗かせた。「朝ご飯出来たけど。食べるでしょ」
 早口で捲し立てると、瞬く間にぴしゃりとガラス戸は閉められた。昨日の失態を謝罪しようとしたブルーノが腰を浮かせたものの、言葉を発する余裕は与えられなかった。
「ブルーノ」
 中途半端な格好のブルーノの肩を叩き、遊星は相好を崩す。今までになく爽やかに。「のこと、幸せにしてやってくれよ」
「……がんばります」
 言葉の裏に潜む重圧にどこまで耐えられるのだろうか。ブルーノが表情を曇らせる中で、遊星は一人、今後の成り行きに胸を弾ませていた。