これは夢か、現実か。不意に気になって頬を思い切り抓ってみた。痛みはなかった。ああこれは夢なんだ。納得して、ブルーノは安堵しかけるが目の先にいる女性の裸体が視界に入り再び狼狽える。
――なんだこれ。
 女性は手を伸ばせば届く距離にいた。何も身につけず、産まれたままの姿でそこに立っている。自身が裸であることに何の躊躇いが無いようで、露わになっている乳房や股間を隠そうとする仕草さえない。羞じらいもなく、まるでブルーノに体を見せつけているような……。肝心な顔はなぜかぼやけていて(夢だからかな?)、目元は前髪で覆われており女性の正体が誰なのか分からなかった。ブルーノは鼓動が激しく脈打ち、顔が見る見るうちに赤くなっていくのがリアルに感じられた。夢の中とはいえ、丸裸の女を見て平常心で居られるわけがないのだ。
 しかし、夢だからといってあんまり凝視するのもなあ。理性に応じ目を逸らそうとするも身体が思うように動かない。いつのまにか身体全体が硬直している……頭の中ではいけないと感じていても、本能が理性を勝り、視界が裸体に固定され続けていた。白い肌、細い首、形の良い乳房、ウエストラインは美しい緩やかな曲線が描かれ、尻からつま先まで無駄な肉はなく、すらりとした華奢な脚。上から下まで舐めるように眼球を忙しく動かして、思わず見とれてしまう。瞳に焼き付ければ焼き付けるほど、女性は肉感的ないい身体をしていた。
 気が付くと、ブルーノは女性へ向けて手を伸ばしていた。だってこれ夢だし……いいよね大丈夫だよね……。生唾をごくりと飲み込む。輪郭をなぞるように指先で女性の頬を撫でて、下へ下へと這わせていく。鎖骨あたりまで指先を下らせると、女性の指先がぴくりと震えた。思わず手を引っ込ませるが、それは女性の手によって阻まれる。女性の身体から遠ざかろうとしていた指は、その女性の手に浚われたのだ。このスケベ、とどやされるのかと肝を冷やしたが、浚われた手は吸い込まれるように女性の胸へと押しつけられただけだった。手のひらから電流が走ったかのような衝撃を覚える。
――なんだこれ。
 二度目の回答もない思考だった。もはや呆然とするしかない。額に汗を滲ませ、口をだらしなく半開きにして、瞬きさえ忘れる。女性の乳房の感触がブルーノの五感全てを侵食していく。
 落ち着けブルーノ。これは夢だ。
「ブルーノ、わたしね……」
 聞き覚えのある甘美な声がねっとりと耳に絡みついた。僕は、この人を知っている……? 女性は浚った手を離すと自身の胸を押しつける形でブルーノに抱きついた。起こる出来事があまりにも唐突で急速すぎて眩暈がする。蹌踉けそうになるのを踏ん張って堪えた。
……?」
 柔らかな肌の感触に気が遠くなる中、無意識に名前を呼んでいた。
 女性がゆっくり顔を上げて、潤んだ瞳でブルーノを見つめる。疑惑が確信に変わる瞬間、テレビの電源を落としたように、ぶつんと夢が途切れた。砂嵐が吹き荒れる。


「はうあっ」
 ごすん。後頭部に鈍い痛みが走った。
 自分の身に何が起こったのか。ブルーノは状況がいまいち飲み込めず、ひっきりなしに瞬きをした。ベッドからずり落ちている態勢で。視界に入るのは見慣れた天井と古びた照明器具、そして暗闇。
「あいたたたた……」
 後頭部をさすりながらゆっくり身を起こす。全身から汗が噴き出していた。びっしょりとシャツが汗を吸い込んで気持ちが悪い。呼吸は荒く、息苦しかった。窓を開けて、冷気を吸い込み深呼吸をする。
「なんだったんだろう、あの夢……」
 落ち着きをある程度取り戻してブルーノは呟く。まさかあのが、それも全裸で――。夢の内容が鮮明に脳裏に蘇る。白い肌から乳房、陰毛まで夢の中ののイメージが焼き付いて、自分の名を呼ぶ声もはっきりと覚えている。抱きつかれたときの柔らかな感触でさえ。
 夢の中の出来事を掘り返せば掘り返すほどブルーノは顔面蒼白になった。悪い夢ではなかったが……を異性として意識していたとはいえ、いくらなんでもあの夢はないだろう。罪悪感のようなものがお腹から沸きだし、ブルーノは力無くへなへなとその場にしゃがみ込んだ。頭を抱える。欲求不満か、僕は。


「おはよう、ブルーノ。今日は早いな」
 眠そうな目をした遊星が階段を下りてくる。
 結局ブルーノはその後寝付けるはずもなく、おまけに目が冴えてしまっていたので一人黙々とガレージでパソコンと睨めっこをしていた。時計は朝の7時を指している。
「おはよう。変な夢を見てさ、寝付けなくなって」
「変な夢?」
「うん、ちょっとね……」
「大丈夫か」
「まあ、大丈夫」
 遊星に心配は掛けまいとブルーノは笑顔で返した。記憶喪失及び身元不明の人間の面倒を見てくれて何かと心労が絶えないであろうし、憂慮すべきはニューエンジンの開発だけでいい。
 遊星はそうか、とだけ短い返事をするとキッチンへ向かった。今日の調理担当は遊星だ。手先の器用な遊星は料理もこれまたプロ級で、舌の肥えているジャックすら唸るほどの腕の持ち主だ。皆が皆、美味しいと口をそろえて言う。今日は何を作ってくれるんだろうと考えるだけで涎が溢れた。
 その後、クロウジャックの順にそれぞれ起床してきた。残すはだけとなったが、出来た朝食をテーブルに並べ終えても一向に起きてくる気配が見られない。
「おいブルーノ。あのねぼすけを起こしてこい」
「え、僕?」
 まさかの指名だった。自分で入れた紅茶を優雅に啜って、当然だと言わんばかりにジャックが鼻を鳴らす。「貴様以外に誰が居る」
 顔が強張った。額から冷や汗がたらりと流れる。正直なところ、あの強烈な夢のおかげで平然としてはいられないだろう考えていて、しばらくはを視界に入れまいと決めていたのだ。そんな思惑がこうも簡単に壊されるとは。
「そうだな。ブルーノ、頼む」
 遊星がコーヒーをブルーノのマグカップに注ぎながら、ジャックの意見に賛同する。遊星に頼まれれば断れるはずもない……助けを求めようもクロウは大きなあくびをして襲い来る睡魔と戦っているし、何より夢のことは誰にも話していないのでここで嫌がって渋ってもかえって訝しまれるだけだ。
「しょうがないなあ」
 予想だにしない展開に浮き足立っていた。立ち上がると、先食ってるぞー、とクロウが投げやりに言う。気が滅入る。こっちの事情も知らないで……遊星だけにでも話しておけば良かったかと後悔するも、淫らな夢の内容を赤裸々に人に話せるほどの度胸をブルーノは持ち合わせていない。


、朝だよーご飯出来たよー」
 《の部屋・男子禁制!》と走り書きされた紙の上から扉を叩く。返事はなかった。もう一度叩く。やはり返事はない。三度目の正直、強めに叩いてみる。……静寂。こうなったら部屋に入って起こすしか手立てがない。ブルーノは大げさな程深いため息を吐いた。神様、これは何の試練です?
「開かないドアは開けるのみ……」
 本音は開けたくないのだが。ドアノブを捻ってそっと中へ入るとがこちらへ背を向け猫のように丸まって熟睡していた。ブランケットは身体に掛かっておらず足元でぐちゃぐちゃになっていて、お世辞にも良いとは言えない寝相であった。
「おーい、あーさーだーよー」
 ブルーノが声を張り上げると、はうーんと唸って仰向けになった。その反動で、シャツが微かに捲れ上がってお腹の肌が露出する。――夢と同じ、艶やかで白い肌。ブルーノは喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。思わず、見とれてしまう。
「ブルーノ……?」
 虚ろな目がこちらを見据えていた。慌てて腹から視線を逸らす。怪しまれただろうか。
「いまなんじ?」
「8時回ったとこだよ」
「げえ……もうそんな時間……」
 は気怠そうに身を起こすと、背筋を伸ばした。口元を抑えて控えめなあくびをする姿は無防備そのもので、夢の中の出来事がフラッシュバックする。指先が震えた。唐突に衝動が襲い来る。現実のに、夢のように触れてみたい。
 はっと我に返る。邪念を振り払うように顔を左右に振った。僕は何を考えているんだ。
「ごめんね、起こしに来てもらっちゃって」
 は乱れた髪を手で直しながら立ち上がった。
「男子禁制って書いてあったけど、開けちゃった」
「ん~? ああ、別に気にしなくていいよ。何となく貼り付けてただけだし、悪いのは私だし」
 は笑顔で手をひらひらと振った。身体を伸ばしながらブルーノの横を通り過ぎる。シャンプーの甘い香りが鼻腔を擽り、それだけでも目が回りそうなのに、が身体をうんと伸ばしたせいで腰回りの肌が露出した。沸き上がる欲望を抑えようと拳を強く握りしめて、堪える。爪が手のひらに食い込んだ。爪を切っておけばよかった。
「顔洗ってくるから先行ってて~」
 己の葛藤と戦うブルーノの心情とは正反対な、素っ頓狂な声だ。ブルーノはの姿が洗面所へ消えてからまた、大げさに深いため息を吐いた。



 白。白白白。見渡す限りの、純白。驚きの白さ。白い空間に唯一存在しているベッドも枕もシーツも、全てが真っ白だ。
 そして自身に覆い被さる女性の肌も。女性はまたしも全裸だった。
 何がどうなっている。ブルーノは頬を思い切り抓った。痛くない。また夢か、と顔を引きつらせた。
「ブルーノ」
 女性が愛おしげに呼んだ。ブルーノの前髪を掻き上げて、指先を頬に滑らせる。ブルーノが前の夢で女性にしたように。線をなぞっていくかの如くなめらかに、戸惑いも見せず、顎へ首筋へ鎖骨へと。服の上から、臍の辺りまで一定の速度で。くすぐったいようなもどかしさにブルーノは身を捩った。女性はそれを見て、ニヒルに口元を歪める……指の降下は止まない。するすると滴る水のように下っていき、動きが止まったのはブルーノの股間の上であった。
「ちょ……、……っ」
 熱が滾り、硬くなり始めていたペニスをズボンの上から手のひらでやんわり包み込まれて、ブルーノは身を震わせた。うあ、と上擦った情けない声を出してしまう。そんなブルーノを見て、女性は目を細めた。嬉しそうに白い歯をむき出しにして這わせた手でペニスを撫でるように刺激しだす。
――お、犯される!
 緩やかな心地良い快感の所為で思考が上手く働かないが、流石に自分の身に迫った状況だけは自覚できた。夢の中とはいえ、恋人でもなんでもない想い人に自分が犯されようしているのだ。ブルーノの頭の中で2つ考えがよぎる。これはいくら何でもよくないという理性が保たれたものと、どうせ夢の中だしいいかという欲望に従ったものだ。まさに天使と悪魔の対立だ。綺麗なブルーノが「だめだよ!」と訴えかけてくるのに対し、悪い顔をしたブルーノは「いいじゃんいいじゃん。そのままやっちゃえ」と唆してくる。僕はどっちを選んだらいい。
 女性はズボンの上からの刺激を止めて、今度はボタンを外しチャックを下げ始めた。顔を股間に近づけている……。
「うわああああああああっ!」
 雄叫びを上げて女性を引っ剥がすように肩に手を伸ばし、ブルーノは起きあがった。その反動で女性は後ろに倒れる。先ほどと立場が逆転した。ブルーノは女性に覆い被さる形になったのだ。
 悪魔の勝利だった。これは夢だ。これは夢なんだ。現実じゃない。目の前にいるのは幻想のだ。自分に言い聞かせる。もう一度頬を抓ったがやっぱり痛くない。
 貪るように女性に口づけをする。荒っぽく、丁寧さに欠けたディープキスだ。しかし女性は嫌がるそぶりも不快感も見せず、むしろ嬉しそうに、ブルーノの舌に自身のそれを絡み合わせ始めた。吸い付いて舌の先端を強く刺激すると、女性は気持ちよさそうな喘ぎ声を漏らす。
 もうどうにでもなれ! 悪魔は頭の片隅でけらけらと腹を抱えて笑って、天使が哀れむような目でこちらを見ている。夢はそこで途切れた。

 これは立派な淫夢だ。ブルーノは勃起した己の息子を見てこれまでにないほどの罪悪感に襲われた。ぽっかりと胸に穴が開いて冷たい風が入り込んで来ている。自分が大切にしてきたものが跡形もなく壊された気分だ。
 目を閉じれば、淫夢がまざまざと蘇る。前回と今回の夢が脳裏にくっきりと焼き付いて離れないのだ。夢の中のを思い起こせば思い起こすほど、萎えることはなく、ペニスは元気になるだけだった。このままではどうしようもないので手で刺激を与えた。摩擦の果てにあっけなくブルーノは達する。精液を受け止めたティッシュを丸めてゴミ箱に投げ入れるも、縁に当たって床に落ちた。拾うことすら面倒だったので、ブルーノはそのまま毛布を頭まで被って羊の数を数え始める。しかし、200匹まで数えても眠りにつけなかったので、仕方なく部屋を出てガレージに向かいパソコンを立ち上げた。


 それからというもの、ブルーノは結構な頻度での登場する淫夢を見るようになり、遊星らの前では気丈に振る舞っていたが、流石にとはまともに口をきくことも顔を合わせることすらもできなくなってきていた。ブルーノに不自然に避けられるようになったが、悲しげな表情を浮かべたのを見て心が大いに痛んだが、だからと言ってブルーノには形振りかまっているほど余裕はなかった。WRGPまで残された時間はそう多くない。今は全神経全総力を一心に注いで新しいエンジンプログラム組み上げなければならないのだ。
 ホイール・オブ・フォーチュンとノートパソコンを繋げてキーボードを一心不乱に打ち続ける。こうすることが淫夢や砕けそうな理性を押さえ込む唯一で絶対の解決策だからだ。
 しばらくして、自分へコーヒーの注がれたマグカップが差し出されて居ることに気が付いた。
「ねえブルーノってば、聞こえてる?」
 の声だった。はっと我に返って横を見れば、呼びかけに応えなかったブルーノを怪訝に思ったがマグカップを手に持ちわずかに眉宇をしかめている。思わず卒倒しそうになった。「コーヒー飲む?」
「あ、ありがとう……気付かなかった」
 突然の出来事に、鼓動が速まった。不可抗力だ。このまま顔を逸らしてマグカップを受け取らなければもうは泣いてしまうかも知れない。差し出されたマグカップを受け取ろうと震える手を伸ばす。取っ手を握るの指に触れた。マグカップを持った手の力がふっと抜ける。電流が流れた気がした。マグカップが落下する。
「あちちちち!」
 取り落としたマグカップは中身をブルーノの太ももにぶちまけた。ズボンに瞬く間に茶色のシミが広がり、コーヒーの熱が太ももに走る。痛みと情けなさで目尻に涙が滲んだ。僕は何をやっているんだろう。
 は慌てて持っていたハンカチで箇所を抑えた。顔から血の気がひいている。
「ごめん、机に置けばよかった……。大丈夫、じゃないよね……」
「へ、平気平気。僕ってこう見えて結構頑丈だから」
「でも、」
 実際の所平気では済まなかったが、そう答えるほか無かった。自分の失態の所為でを困らせたくはない。大丈夫だよ心配しないでと繰り返して、太ももをさすりながら苦笑を向けた。そんなブルーノを見ては伏し目がちに唇を尖らせて、呟く。
「最近のブルーノ、何か変」
 えっ。喉から心臓が飛び出そうになる。金魚のように口をぱくぱくと開閉させた。思考回路が停止している。返す言葉が見つからないでいると、前からブルーノの顔面に向かって冷たい何かが投げ付けられた。それはブルーノの足元に落ちる。氷の入ったビニール袋だった。顔面の痛みに表情をぐしゃりと歪めて飛んできた方向を見遣ると、ジャックが仁王立ちで立っていた。
「そいつが可笑しいのは今に始まったことではないだろう」
 腕を組んでこちらへ近づき、その鋭い眼光でブルーノを睨み付けた。怒りの篭もった瞳にたじろぎ、思わず顔を引きつらせる。これは殴られるなと瞬時に悟った。
「もう、ジャック。そういうこと言わないの」
 は足元に落ちた氷袋を拾い上げてブルーノの太ももに押し当てる。「着替え取ってくるね。待ってて」
 そう言うとはジャックの横を駆け足で通り過ぎた。ジャックは横目での姿を追っている。彼のかんばせには哀れむような、同情めいた色が浮かんでいた。ブルーノはぽりぽりと頬を掻く。ジャックがブルーノに向き直れば思った通り、頭部を拳で殴られた。衝撃が走り、視界に火花が散った。太もも顔面よりも大きな激痛だ。
「貴様に避けられているとしょげている」
 一瞬何のことだかさっぱり理解できなかった。じんじんと痛む頭部を抑えて数秒後に、の事かと把握する。ジャックがブルーノの胸ぐらを掴んで無理矢理立たせ顔を近づけて来たので、ブルーノは顔をひきつらせて渇いた笑いを零した。降参だと言わんばかりに両手を肩ほどに上げる。太ももから氷袋がずり落ちた。
「泣かせたらただじゃおかないからな。覚悟しておけ」
「はい……」
 凄みながら発せられた言葉に、ブルーノは青ざめながら小首を上下に振った。胸ぐらを掴んでいた手を乱暴に離されて、尻餅をつくようにブルーノは椅子に腰掛ける。もう何がなんだか……一連の事態に対して、サレンダーできるものなら即座にしてやりたい気分だ。ブルーノはこうべを垂らす他ない。


 翌朝、ズボンを下ろして太ももの状態を見る。処置が早く念入りだったためか幸い水膨れにはなりそうにない。じわりと痛みが残るぐらいにまでどうにか収まった。傷痕として残るようでも無さそうで、改めてブルーノはに感謝する。彼女はブルーノの火傷は自分の過失でありブルーノの所為ではないと、断固として意見を変えず、着替えと薬と追加の氷を持ってきた後も付きっきりで看病したのだ。この状況を、淫夢を見るようになる前なら天国であると信じて疑わなかっただろう。だがを変に意識してしまっている今、ある意味で地獄だと言っても過言ではなかった。
 着替えを済ませ洗面所へ向かい顔を洗う。キッチンから美味しそうな匂いが漂ってきたので、タオルで水気を拭きながら顔を覗かせた。今日の調理担当は誰だったっけ。
「あっブルーノ!」
 顔をひょっこり出してすぐ、の甲高い声がブルーノの聴覚を貫いた。は髪をコンコルドで纏めて、白いうなじをこれ見よがしに露わにしており、咄嗟にブルーノは欲情しかけてしまう。目を見開いて硬直していると、がフライ返しを手にこちらへ駆け寄ってきた。
「脚の具合どう? まだ痛む? 水膨れになってない?」
 早口で捲し立てるは様子を伺うように上目遣いでブルーノを見つめてくる。真剣な面持ちではあるが、この媚態は狙っているのか無意識なのか。駄目だ。頭がおかしくなりそうだ。逃げるように、ブルーノは合わされた目を瞬時に逸らしてしまう。そんな仕打ちに、ブルーノの心情を知らないは顔を顰め、涙ぐみそうになって俯いている。目を逸らした当人は彼女の状態に気付けない。
「うん。もう大丈夫」
「本当?」
「ほんとだよ」
「そっか……」
 沈黙。気まずい空気が辺りに漂い始めた。
「もうすぐ朝ご飯出来るから」
 はそれだけ告げると、コンロの前へと戻り、フライパンを火に掛けた。
「あのねブルーノ。はっきり言ってくれてもいいんだよ」
 油をひいて馴染ませると、卵を割ってフライパンの上に落としていく。白身がある程度固まったところで、カップの水を流し入れて蓋をする。一連の動作の最中、は振り絞るように声を出して、泣き出しそうになるのをぐっと堪えていた。「私のこと、嫌いなら嫌いって」
 ブルーノにはの言葉の意味がいまいち理解できていなかった。誰が、誰を嫌っているって? 逸らしていた顔を上げてを見遣る。その刹那、の瞳から涙が一筋流れるのが視界に入り、全身の血の気がさっとひいた。彼女の目は赤く充血して、唇はわなわなと震えている。理性を保つためのブルーノの行いが返ってを傷つけていた冷酷なものだったのだと、改めて思い知った。慌てて弁解の意を唱える。
「嫌ってなんかいないよ」
「じゃあなんで避けるの? どうして顔も合わせようとしてくれないの?」
「それは……」
 言葉に詰まった。君を見ると、淫夢の中の君を思い出して自制が効かなくなってしまいそうになるんだとは、言えるはずもない。
「ほら。やっぱり私のこと嫌いなんじゃない」
 は鼻水をずず、と啜った。目から大粒の涙を流しては嗚咽している。
 嫌うわけがない。嫌えるはずもない。遊星らに負けないぐらいを想って、好きで好きで好きすぎて、あんな夢まで見ている醜態なのだ。後ろめたさはあるものの、時折夢の中のを思い出しては自慰を行うことだってある。魅力的で頼りがいのある、憧れの存在。たとえこの先ずっとこの思いが一方通行なのだとしても、永遠に愛を与え続けていきたい。ブルーノにとってはそう想わせてくれる唯一の女性なのだ。
 身体の中で何かが弾ける音がした。気が付いたときには既に遅し、ブルーノは泣きじゃくるを強引に抱き寄せていた。の手からフライ返しが滑り落ち、音を立てて床に落下する。
「っ、……」
 驚きを隠せないのか、はブルーノの腕の中で身を捩って藻掻いた。しかし腕の束縛は強く、ちょっとやそっとのことで逃れることは出来そうにもない。嫌われていると思いこんでいた相手に抱きしめられるとは予想だにしなかった展開で、なぜこんなことをされているのか、意図が全く読み取れない。
 ブルーノがか細い声で何かを呟いた。数秒経ってその言葉を意味を把握する。一瞬にして顔が赤面した。じゅう、と卵が焼ける音がして、は我に返る。
「ブルーノ、目玉焼き焦げちゃう」
「あ……」
 のその一言で、ブルーノもふと我に返った。衝動に駆られて自分が何をしでかしていたのか、腕の力を緩めて状況を把握していると、抱き寄せてられていたがブルーノの胸に手をついてそっと身体を離した。耳まで真っ赤に染まり上がっている。数秒の間があいた後、ブルーノも顔も赤く沸騰した。遠ざかるように素早く後退りをして、壁に背を付ける。
「ごごごごごごめん! 忘れて!」
 居ても立っても居られず、ブルーノはどたばたと足を踏み鳴らしてその場から逃げた。階段を下っているところで足がもつれ、そのまま下へごろごろと転がり落ち、隅に積んであったブラックバードデリバリーの空段ボールに勢いよく突っ込んでいく。静かな朝に騒音と悲鳴が辺りに響き渡った。
 大量の段ボールに埋もれながら、頬を抓ってみた。別に抓らなくとも全身に激痛が及んでいたのだが、改まってこれは夢じゃないんだと思い知る。そして途方に暮れる。を泣かせてしまったことにより、ジャックの鉄槌が振り落とされる事が確定してしまったからだ。


「忘れろって言われたって……」
 囁かれた言葉が、の頭の中で揺らめいている。「すきなのに」
 そんな事を言われて、忘れられるとでも? 一瞬これは夢なんじゃないかと思い立ち、は頬を強く抓ってみた。あいててて。痛いじゃないの。どうやら夢では無いらしい。
 呆然とその場に立ち尽くしていると、焦げたような匂いが鼻についたので、は慌ててコンロの火を消した。