うさぎ




 真っ暗な部屋に響く携帯の着信音で私の眠りは妨げられる。穏やかなピアノの旋律に寄り添うように重ねられた力強い歌声が、私の聴覚を刺激し、頭の中で目を覚ませと訴えてくるのだ。重い瞼を擦って枕元に置かれた携帯を開く。画面を一々確認せずとも分かるのだが…画面にはブルーノと表示されていた。この着信音は彼からのものとすぐ分かるように設定していた。

 週に一度か二度、ブルーノが子供のように甘えてくる日がある。それは決まって夜中の一時前後で、私がどれだけ疲れていようが爆睡していようがお構いなし。躊躇うこともなく電話を入れてくる。一人でいると不安で眠れない。記憶がないのは明日が無いのと同じで、怖くて寂しい。だから僕が眠れるまで側に居てくれないか、と。

 彼はうさぎなのだ。寂しいと死んでしまう。どんなに大柄で体格がよくて膨大な知識を持ち、プログラミングに長けていても、こうして時折見せる弱々しい姿・言動と可愛らしい仕草。それは不思議と私の母性本能を擽る。彼からの真夜中の電話は嫌ではなかった。


「もしもし」

「ああ、ごめん、また起こしちゃったね」


 心から謝っているようには聞こえなかったので、私はわざとブルーノに聞こえるように大きなあくびをした。


「本当に悪いって思ってる?」

「思ってるよ、すごく」

「そう?ならいいけど」

「あのさ、今大丈夫?」

「いいよ。大丈夫。でもちょっと待っててね」


 それじゃあ、と私は電話を切る。電波を挟んだやり取りは、詳細を述べずともお互いに内容を理解できていた。

 側に脱ぎ捨ててあったパーカを羽織って、洗面台へ向かった。蛇口を捻ると冷たい水が流れ出す。手のひらに水を溜めて目を重点的に洗い、タオルで水気を拭いた。そしてブラシを手にとってあらゆる方向に飛んで絡まる髪を梳かす。いつもより寝癖が一段と酷かったが、ブルーノが待っているのと直すのが面倒だったのでブラシを元の場所に戻した。


 初めてブルーノから電話がきたとき、理由にもだが酷く驚いたのを今でもよく覚えている。遊星らと一つ屋根の下、共同生活を始めてから各々が携帯を持ち、それぞれの番号とアドレスを交換していたがなにせ朝から晩までほぼ一緒だったので、五人の間での携帯でのやり取りは非常に少なかった。そんな中掛かってきた真夜中の電話。しかもブルーノから。これには流石に驚かずにいられない。

 ゾラが提供してくれたガレージには、一つ一つは広くはないがそれなりの部屋数があった。数ある部屋の中でも一番狭い部屋に追いやられたブルーノだが(ジャックが勝手に決めたのだ)、彼は彼なりにこの部屋での暮らしを楽しんでいるらしい。


「ブルーノ、入るよ」


 こつこつと扉をノックして、返事も待たずにドアノブを静かに捻った。そっとドアを開けると隙間から、目の先でベッドに横たわるブルーノが視界に入る。規則的な寝息と時計の針の音が、部屋の中に存在していた。あろうことか、ブルーノは眠りについている。その姿を見て、がくっと私は肩を盛大に落としてしまう。


「おいコラ、人のこと呼んでおいて寝るな」


 ベッドの端に腰を掛けてブルーノの肩を少々荒っぽく叩いてみるが、彼は眉間に皺を寄せもぞもぞと寝返りを打って呻るだけで起きる気配が見られ無い。私はむっと口を尖らせた。このまま立ち去っても良かったのだが、少しの間、ブルーノの横顔を目に焼き付けようかと思ってその場に留まった。端正な目鼻立ち、深い青みの髪。それらの輪郭を舐めるように目線でなぞっていく。彼は私の協力が無くとも寝付けるようになったのだ。寂しくもあるが、成長が喜ばしくもある。


「んん……ジャック……暴力は…よくないよ……」


 呻りの末に出た寝言に私は笑いが込み上げ吹き出してしまった。夢の中でもジャックに殴られているのかと思うと可笑しくてたまらない。強張っていた頬を緩ませて、声を押し殺しつつ笑う。呼び出した本人が寝こけているのは些か立腹ではあるし虚しくもあるが、まあ今日だけは許してやろうと思う。ブルーノの頬に掛かった髪を掻き分けて、身を屈ませた。顔を覗き込んでブルーノが寝ていることを再度確認してから、やんわりと彼の頬に唇を落とす。


「ブルーノのばか。おやすみ」


 時刻は一時半を迎えようとしていた。すやすやと気持ちよさそうな寝息と秒針が刻む時の音を後に、ドアノブに手をかけ――


「どこに行くの?」


 後ろから、文字通り声がした。ドアノブに掛けていた手の上に、いつの間にか私の手ではない手が重ねられている。


「んぎゃあっ!!」


 私の人生においてこれほどまで驚愕したのは初めてかも知れない。思わず口から絶叫が漏れる。慌てたのか、しっ、と宥めるように耳元で囁かれ、私は口元を手で押さえこくこくと首を小刻みに縦に振った。


「お、起きてたの?」

「寝てたよ。でも起きてた」

「どっちなのよ」

「別にどっちでもいいじゃない」


 重ねられた手を強く握られる。体の芯が火照って熱い。驚きとブルーノが耳に吐息が掛かるくらいの距離で語りかけてくる所為だろうか。


「それよりもさ、


 ブルーノは更に体を密着させて、私の顔を覗き込んでくる。ぼんやりとした虚ろな目が私の瞳を真っ直ぐに捕らえてきて、今までには感じ得られなかった彼の凄艶な雰囲気に飲み込まれてしまいそうだ。誰だこれ。子供のように甘えてくる時とはまるで別人だ。ブルーノは茶目っ気の混じったとびきりの笑みを向けてくる。


「さっきの続きしたいなあって」

「つ、続き?」

「そ、続き。ほっぺちゅーの」

「あああっ、あれはそのね、出来心というか特に意味は無くって…!」


 思い出して、必死に取り繕う。体を180度回転させて、ブルーノと向き合った。彼の勝ち誇ったような、してやったりなかんばせに羞恥心が沸き起こる。ブルーノから視線を逸らして口をへの字に曲げた。鏡がないので確認出来ないがきっと今私の顔は茹で蛸より真っ赤だろう。


「かわいい。


 ブルーノはそっと私の頭を撫でて、寝癖の付いた髪を指に絡めて弄んでくる。ブルーノがじりじりと間の距離を狭めてきて、私は無意識のうちに後ずさりをしたが、すぐに扉と背がくっついた。ブルーノは両手を扉について、今度は互いの唇の距離を狭めてくる。


「ブルーノ、もしかして寝ぼけてる?」

「ん?」


 おそるおそる聞いてはみるが、彼は惚けた笑みを浮かべただけだった。ブルーノが瞼を閉じたのを見届けてから、私も雰囲気に流されるままそっと目を閉じた。やがて柔らかく湿った唇が重ねられる。ブルーノの唇は少し冷たかった。火照った体をクールダウンさせるようだった。

 感触を楽しむかのような口づけは、突き飛ばそうだとか噛み付いてやろうだとか、そういった私の思考回路もぐちゃぐちゃにかき乱していく。

 ブルーノは私の体をぎゅっと抱きしめた。逃がさないとでも言わんばかりに力を込めて。口唇を話して薄目を開けて見れば、至近距離に彼が居る。


「うさぎさん」
 声を発すれば、互いの唇がかすかに触れあった。彼はそれを狙っているのかもしれない。「ひとりぼっちにされたら死んじゃうんでしょ」

「そうだよ。僕はうさぎさ。夜は嫌い。孤独も嫌い。暴力も嫌い。でもは好き。気持ちいいのはもっと好き」


 私が小さく紡ごうとした言葉を、彼に再び唇を押しつけられて遮ぎられた。断りもなく舌が私の口内に進入してくる。口を開き、深く入ってくるものを受け入れてやれば、彼は満足げに吐息を漏らした。口唇を愛おしそうに離しては角度を変えて、何度も口内を舌でまさぐってくる。甘くて熱くてとろけそうで、混ざり合って、睦み合うようなキスだ。下手ではないけれどどこかもどかしさのある彼のキスで体の隅々を満たされたくなった。行き所を無くしていた腕をブルーノの首へ廻して、ねだる。

 ブルーノは口づけの合間に、今夜はずっと側に居て欲しいなんて言うのだ。キュートなうさぎが耳を垂らして人懐っこく甘えてくれば、断れるわけがないだろうに。